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戦後労働運動史の中から 第8回

月刊『労働運動』26頁(0287号13面01)(2014/02/01)


 

戦後労働運動史の中から 第8回
 

 

細谷松太と高野実(2)

 前回、細谷松太・高野実の二人に生きる戦前労働運動の精神にふれました。
 そこで、戦後の二人ですが、高野実はボス的で資本の了解のもとでの組織運動も辞さないような総同盟右派に、関東金属労働組合(のちの総評全金)を拠点として対抗し、1948年には総同盟総主事に当選します。
 細谷松太は戦後の「ポツダム組合」(労働者が資本の厳しい抑圧に抗して自主的に作る団結というより、米占領軍主導の民主化に乗じて生まれた組合)の内実に深い危惧を感じます。大企業組合の多数が産別系で、産別会議は総同盟に対して優勢でしたが、細谷はむしろ不安を覚える。組合員の考えが左派で統一されてもいないのに、共産党の目的に向けて引っ張り回すのでは、いつかは反発される。組合を労働者自身のものとする民主主義的運営が必要だ。この自己批判の主張が共産党から拒否・抑圧される中で、細谷は産別民主化同盟(民同)を作るのです。
 産別会議加盟の多くの組合で民同派が勢いを増し、また産別を脱退して単独組合化するものも続出しました。一方、総同盟では、主導権を握った高野らが勢いに乗って総同盟解体をはかる。細谷・高野の連携で新ナショナル・センターへの動きが始まります。
 しかしこの連携は続きません。もともと細谷には労働組合原理主義の趣きがある。下から自主的労働組合を作ることに固辞します。高野は、そんなことを言ってもいまある組合を一から作り直すなんて非現実的、欠陥のある組合でも産業別化の網をかぶせ、高度な統一闘争に巻き込めば引き上げられる、と考えたのでしょう。高野はなかなかの策略家で、本当の腹の中が分からないと言われることもあるのです。新組織結成に米占領軍の権威を利用することも平気でしたが、細谷はこれにも反対。こうして二人の道は別れる。総評に背を向けた細谷の理想主義は「現実」から浮いてしまいます。
 誕生した総評を高野は相当強引に引っ張ります。やっと自分の考える労働運動を実現する場を得たのです。
 しかし彼も5年後には事務局長の地位から逐われます。逐ったのは戦後派の企業別大組合の幹部たちです。彼らは頼れる結集体を求めて総評に加わるが、結局高野とは肌が合わない。彼らは戦後民主化の中で一挙にできた従業員一括加盟の組合を掌握する実力を示した人たちです。この企業別組合が、労働者をまとめ、問題を解決する彼らの場だった。下からのエネルギーを上からまとめるのが彼らの本領です。職場から盛り上がる力自体を躍動させようという戦前派の理想で走る高野は非現実的に見えました。
 高野の指導には政治主義的な偏りもありましたが、彼を逐ったのはやはり戦後の「現実」のある面でした。こうして細谷松太の運命が数年後に高野実の運命になったのです。
 高野を逐った総評は、しかしそれなりに労働者の希望を負った運動を展開しますが、それについては別の回で書きましょう。

伊藤 晃 日本近代史研究者
1941年北海道生まれ。『無産政党と労働運動』(社会評論社)『転向と天皇制』(勁草書房)『日本労働組合評議会の歴史』(社会評論社)など著書多数。国鉄闘争全国運動呼びかけ人