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戦後労働運動史の中から 第13回

月刊『労働運動』34頁(0292号12/01)(2014/07/01)



戦後労働運動史の中から 第13回

1953年日産自動車争議(1)

 1950年代に総評は多くの大争議を経験します。その一つが53年日産自動車争議です。
 当時、日本の自動車産業は、敗戦直後のほとんどゼロからの再建、生産復興の途上でした。そのなかで48年、生産の主人公は労働者だと主張して全日本自動車産業労働組合(全自動車)が結成されています。日産・トヨタ・いすず三社の組合が主力でした。
 「労働者が生産の主体だ」は現実性があったのです。自動車産業は戦前・戦中は軍需産業で、一切国によりかかった経営者群が、敗戦後国の産業再建の重点からはずれ、茫然としていた。労働組合を作った各社従業員は、自分たちの職場と生活を守るために自動車産業復興を目標に掲げるのです。軍の介入と無能経営幹部を苦々しく見ていた中堅社員がまず先頭に立ち、上層熟練労働者もこれに応じました。
 日産の組合と全自動車を率いたのが益田哲夫。戦後労働運動の英雄時代を象徴する一人です。中堅社員どころか、東大卒、高等文官試験(いまの国家公務員総合職試験)合格、文句なしに経営幹部候補のこの人が、無比の指導力をもって労働運動に生涯をかけたのです。彼は中間管理層・技術者層を組合の生産復興運動に動員するだけでなく、労働者主体の組合という考えを持ち、組合の重心を労働者(ことに熟練工層)に移動させようとしました。当時、日本の自動車産業は、戦時中技術輸入がなく、時代に遅れ、コンベア・システムなど夢の中の話、熟練工の技能に多くを頼っていました。彼らの能動性を生かさなければ産業復興はなどありえない。労働者の権利と生活安定は、産業再建の中心問題でした。益田哲夫は、その現実を正面から見つめ、誠実にそれにこたえたわけです。
 かつて労働運動は、賃金の形はどうあるべきかを絶えず議論していました。日産労組の賃金闘争方針も注目されたものです。最低生活を保障せよ、査定の恣意性と差別に反対、労働の質と量に応じて正しく支払え、質の評価の基準としてある熟練度に至る労働経験年数を重視し、これを産業全体に適用せよという。公平さと労働者の熟練への誇りを両立させようとしたのです。労働者主体に考えたから、初期の組合の支えの一つだった技術者層には不満もあり、後の争議にそれが現れます。また組合の歴史が短く、議論を深める時間がなかったが、思い出してよい試みでした。
 日産労組の職場闘争は有名でした。日常職場に現れる労資対立問題を、組合上部の交渉だけにまかせず、職場労働者の自主的行動で解決をめざす。民主化された職場から計画的な生産体制を作ろうという。職場を中堅社員主導から労働者主導に組みかえるのです。労働者の技能に頼る生産では、労働の量が生産計画の最大要素でした。日産には、職場委員の承認なし残業を命ずることができない状況が作られました。    (次号に続く)