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戦後労働運動史の中から 第20回 近江絹糸の人権争議(1)

月刊『労働運動』34頁(0299号15/01)(2015/02/01)

戦後労働運動史の中から 第20回 近江絹糸の人権争議(1)

戦後労働運動史の中から 第20回

伊藤 晃(日本近代史研究者)

近江絹糸の人権争議(1)

 1954年6~9月、全国の耳目を集めた労働争議が近江絹糸争議です。近江絹糸(今はオーミケンシ)という会社は、絹糸というから生糸から創業したのでしょうが、むしろ綿紡績・織布を主とする企業で、新興ですが戦中・戦後に急成長、先発の一流企業と肩を並べる規模と業績を誇っていました。
 繊維産業は、今と違って、かつては綿糸と生糸が日本の輸出の主力をなすほどの基幹産業でした。労働運動は伝統的に右派が強く、戦後も全国繊維産業労働組合同盟(全織同盟、いまのUAゼンセン同盟)が圧倒的な勢力をもっていました。その全織同盟が長らく入り込めなかったのが、近江絹糸でした。全繊同盟は、労資関係を安定させるための労働組合の効用を説いて、資本側と協調しながら組合作りをするやり方で、多くの大企業に根を下ろしてきた組合です。ところが近江絹糸はこの全繊同盟さえ受け付けなかったのです。
 日本の繊維産業は昔は苛酷な労働で有名、これを武器に世界市場での競争力を保っていました。戦後は少し変わり、少なくとも大企業は労働基準法順守を建前にしていました。ところが近江絹糸はその点特異で、労基法違反は日常茶飯事、ほとんどの労働者が寄宿舎に入らされ、そこでは外出制限や信書の開封が当り前、多くの人が中学卒で入社するのに定時制高校への通学の自由がない(会社が作る高校ならよい。この「学校」はカリキュラムの半分が「実習」、つまり現場の労働だった)。そして仏教が強制される(会社は仏教の道場、仏の恵みに感謝して世のため人のため力を合わせて働け、というのが夏川嘉久社長の思想)。つまり日本国憲法の外にある会社でした。女性や年少者の深夜労働は禁じられているというので、18才以上の男性労働者を1年契約で雇って深夜労働専門で働かせました。これを労働者たちは「フクロウ労働」と呼びました(フクロウは夜行性の鳥です)。文字どおりのブラック企業でした。
 これに対して労働組合を作る動きも何回かあったが、不当労働行為のやり放題で、すべて会社が作った御用組合につぶされます。従業員は近畿・東海に散らばる7工場に1万3千余人、女性が4分の3、18歳未満が過半数という構成ですが、こんな会社をよくしようなどムダなことだと思うからどんどんやめます。平均勤続年数が1年7か月でした。それでも当時は農村に労働力は余っていたから、会社はいくらでも補充できました。
 全繊同盟のオルグと従業員有志グループの潜行的運動がようやく成功したのが、54年5月。本社の男性社員がまず、第一組合(御用組合)に対して第二組合を結成、22項目の要求を掲げます。ほとんどが前記の基本的人権無視をやめろというもので、賃金問題は二の次でした。頑固に要求を拒否する会社に対して6月3日にストライキに突入、すぐに7工場の従業員に波及し、全社的な「人権争議」が始まりました。
 (次回に続く)