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戦後労働運動史の中から 第31回炭労の闘争と三池争議(3)

月刊『労働運動』34頁(0310号09/01)(2016/01/01)

戦後労働運動史の中から第31回
炭労の闘争と三池争議(3)


(前号より続く)
 三井鉱山会社が三池炭鉱労働組合に挑戦してきたのは一九五九年です。この年、政府が先導して石炭大手各社の企業整備が強行され、炭労はやはり有効に対処できませんでした。三鉱連(前々号参照)も三池を除くと妥協傾向が強い。孤立する三池に会社は攻撃を集中。整理目標を満たすことを主眼とする中労委あっせん案に対してさえ、「量より質だ」として拒否する。「質」とは解雇者に必ず職場活動家三百人を含めろということ。こうして一二月に一三〇〇人に指名解雇通告、翌年一月団交は決裂して二五日に会社側のロックアウト宣告、組合側は無期限ストに入りました。
 石炭資本にとって、他のヤマで人員整理が円滑に進んでも三池が残ったのでは悩みは依然残る。その三池では職場闘争をつぶさなければ整理の意味がなかった。合理化は労働者を協力させなければ、従って協力しない組合をつぶさなければ、進行させられない。この合理化の本質が浮かび上がったのです。
 この正面衝突を受けて、炭労・総評も「総資本対総労働の対決」だと、三池絶対支援方針をとります。しかしその裏では「資本が本気でかかってきたら日本の労働組合は勝てない」、しかも石炭業に将来はない以上、合理化もやむをえないと、どこで妥協をつかむかに関心が向いていました。だが本当に戦いは無理だったのか。石炭資本は大手各社在籍の一八万人の六〇%弱を整理するつもりだったのです。どこのヤマにも問題は共通していました。「明日は我が身」だ。だが炭労は、全炭鉱にわたる闘争方針を作れなかった。
 三月に三池に第二組合が発生します。その徴候は以前からあった。だが組合は軽く見たのか、これと積極的に戦わなかったようです。「ウチの労働者は階級意識がしっかりしているから」という自信はうなずける。しかし労働者の意識は激烈な労資対立の前面でだけ作られるのではない。資本は労働者の意識のどの面にもつけこむのです。
 以後、第二組合を先頭に立てた会社側の暴力的攻撃に労働者はよく耐えます。第二組合はこの段階ではまだ少数派だった。第一組合の労働者たちには、自分たちの戦いで人間らしい労働をはじめて実現したのだ、われわれは正しい、という確信がある。何年も資本の攻撃を退けてきた自信もある。ともに戦った仲間を裏切れるか。仲間のクビは絶対許さない。この意地が彼らを支えています。そして三月末、暴力団による組合員殺害で爆発した怒りは、弱腰の炭労・総評指導部をも引っ張ります。
 だが炭労は相変わらず戦いを拡大することはできなかった。選ばれたのは「最後の決戦」、ホッパー(掘った石炭をいったん集積する施設。ここからしか石炭は搬出できない)攻防戦でした。全国から馳せ集まった支援労働者がここに配置される。全国の耳目もこのホッパーに集中しました。
 (次号に続く)

伊藤 晃(日本近代史研究者)