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戦後労働運動史の中から第36回

月刊『労働運動』34頁(0315号14/01)(2016/06/01)


戦後労働運動史の中から第36回

新日本窒素水俣工場の「安定賃金」争議(1)

 一九六二年七月、合化労連(合成化学産業労働組合連合)の中心組合の一つ、新日本窒素水俣工場の組合が、会社側の「安定賃金」提案に反対して無期限ストに入りました。
 新日本窒素(略称新日窒、のちチッソと改称)は、当時化学産業の大手企業、その水俣工場は、海に流された工場廃水が住民に有機水銀中毒(水俣病)を引き起こした元凶です。この会社は戦前、日本窒素といって、朝鮮に進出、鴨緑江水系などに開いた大水力発電所による化学工業で大資本にのし上がった。敗戦後、日本に逃げ帰って会社発祥の地、水俣で、石油化学以前の化学工業の花形、合成肥料や各種有機合成化学製品を生産していました。
 六〇年前後、高度成長期にさしかかった日本資本主義の資本蓄積戦略にそって、労働組合が連年展開する賃上げ闘争は最大の障害物です。闘争を抑える手の一つに「安定賃金」がありました。一定年度賃上げを保障する代わりに争議をせず社内平和を実現しようという。
 新日本窒素は当時、石油化学への転換に乗り遅れまいと、千葉県五井に新工場建設を計画、その「悲願」達成には労資一致の社内平和が必要と「安定賃金協定」を提案したのです。四年間、同業数社の賃上げ平均を基準にして賃上げをする、合理化目的の人員整理もやめる、その代わり組合は合理化に協力(ストライキはしない)せよというものです。
 大変ずるい考えですね。同業各社で実現した賃上げを組合は戦わずに実現できる、つまりただ乗りです。会社も同業各社と横並びならストライキがない分得をする。だが、これは組合に仲間の組合を裏切り、さらに当然の権利、スト権を売り渡せということ。水俣工場の組合はこんな餌にはつられませんでした。社員層の妥協気分を蹴って、会社提案を全面拒否し、争議に入りました。
 この頃、地方小都市に大工場があると、町は企業城下町になる。水俣もそうで、だから早くからわかっていた工場廃水の問題も抑えられていたのですが、一面では一般従業員はだいたい地元出身、他地方出身者の多い会社上層部や中堅高学歴層に対して、団結力も強く、五三年には社員・工員の身分差別撤廃要求の長期ストライキもありました。
 さて、交渉もそこそこにロック・アウトを通告した会社側に対して、七月二三日ストライキ突入、待っていたように二四日管理職層中心の第二組合結成、すぐにピケを破って強行就労をはかります。対抗して第一組合を総評・合化労連、近くの三池炭坑の組合が全面支援します。水俣工場の労働者にとって本格的なピケやデモは初めての経験でした。以後、工場内で生産を再開したと叫ぶ第二組合との持久戦。合化労連は「三池の教訓に学び」、なるべく強硬手段を避ける方針をとったようですが、現場労働者の三分の二を固めた第一組合は頑張り抜きます。そこへ時期をはかってお決まりの手順で「仲裁」に入ってきたのが熊本県地方労働委員会でした。
 (次号に続く)

伊藤 晃(日本近代史研究者)