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戦後労働運動史の中から第37回 新日本窒素水俣工場「安定賃金」争議(2)

月刊『労働運動』34頁(0316号15/01)(2016/07/01)

戦後労働運動史の中から第37回
新日本窒素水俣工場の「安定賃金」争議(2)

 (前号より続く)

 六三年一月の熊本地労委のあっせん案は、①安定賃金の期間の一年縮小、②過剰人員は希望退職で処理する、③組合代表者二名が自主退職する、という会社側の立場に立ったもの。しかし潮時と見た合化労連はここで妥結方針をとります。「あっせん案には不満だ。しかし争議継続には無理がある。労連にも親日窒の組合にも将来の合理化攻勢に対して余力を残すため、長期抵抗に切り替える。以後、安定賃金を出した会社は抵抗を受けて損をするほど運動の力が大きいと資本側に認識させたことは我々の自信になる」。大企業での正面衝突は組合をつぶされる、という五〇年代から三池にかけての「教訓」が、民間大企業でのほとんど最後の長期ストライキを、こういう弁明を残して終結させることになりました。
 水俣工場の組合に〝余力〟は十分あったが、独力では争議を続けられない。総評・合化労連は延べ一五万人、四億円余の大応援で力を使い果たしたとは言えるでしょう。
 争議後、組合員に不利な扱いはしないという協定に反して、会社側の第一組合攻撃は、その後今日までおなじみの形が総動員されています。大多数を原職に復帰させず、急造した別職場に隔離、草取りなど雑作業をさせる。工場内ではしつこい嫌がらせと「説得」。希望退職の強要。別会社を作っての強制出向。悪戦苦闘に組合員はよく耐え、七〇年代に入っても第一組合は一千名を保っていました。
 そしてこの間に、この労働者たちは労働運動史に残る一つの功績を残したのです。
 新日窒水俣工場は、前回述べたように「水俣病」を引き起こした工場です。これに対し組合は、問題を認識してからも、賃金を払ってくれる会社の基礎を揺るがすことを恐れ、むしろ患者や漁民たちの抗議・補償要求行動に敵対的な行動を取りました。しかし、自分たちが大争議を戦い、その後の組合攻撃と戦い抜くなかで、労働者への攻撃と水俣病患者攻撃が同根であると気づく。六八年、組合は「これまで水俣病に対して何も戦い得なかったことを労働者として恥と考える。今後、患者の戦いをわれわれ自身の戦いとする」と大会決議しました。七〇年には抗議ストライキも行う。日本で初めての公害ストライキと言われます。
 もともと化学工場は有害物質を多く出し、職業病・労働災害が多発する特徴があります。それが工場外に排出されれば公害になるのです。本来、労働組合は公害を阻止し、会社の責任を問う闘争の主体となるべきものでした。しかし合化労連全体として、各工場の問題が千差万別なこともあり、統一的な公害反対闘争方針を出すことが困難でした。けれども七〇年代に入って、水俣工場の闘争を受けて、「企業意識優先で、現場の労働者として問題がわかっていても取り組めなかったことを自己批判する」と表明します。日本労働運動全体の大きな前進といってよいでしょう。水俣工場の労働者は先駆的な役割を果たしたのです。
 (次号に続く)
伊藤 晃(日本近代史研究者)