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■戦後労働運動史の中から 第22回

月刊『労働運動』34頁(0301号14/01)(2015/04/01)

■戦後労働運動史の中から 第22回

生産性向上運動の真実(1)

 1955年に日本生産性本部が設立されました。生産性向上運動の推進本部です。
 生産性向上運動とは、だいたい合理化推進と同じことですが、「人がみな自分の労働の生産性向上を心がけるなら、これによって社会全体の豊かさが約束される」として、ことに労働者の意識変革をめざした資本側の運動です。
 第二次世界大戦後、荒廃したヨーロッパの再建援助にアメリカが乗り出した時に持ち出したもので、アメリカが実現した巨大な生産力を見せつけて「アメリカ的生産様式」を学習させ、当時社会主義への傾斜も現われかけたヨーロッパ労働運動を、「豊かさ」と「進歩」の価値意識で資本主義側に取り戻そうとしたのです。要するに、アメリカイズムによる世界の作り変えの一環で、これが1950年代に日本にも持ち込まれたのです。
 日本の資本家集団も喜んでこれに応じます。15年間の戦争への資本家集団の反省点は、自分たちが悪いことをしたなどということではない。「生産力の低さからアメリカに太刀打ちできなかった」の一事です。だから敗戦後すぐさま彼らの「アメリカに学べ」が始まる。アメリカの最新技術、経営手法、労務管理方式、すべてをつぶさに学んで、50年代前半には、世界的水準への追尾をめざして鉄鋼・自動車などを先頭に合理化が始まります。そこにアメリカが生産性向上運動を持ちかけたのです。
 ふり返ってみると、第二次世界大戦後、世界資本主義は深い危機の中にありました。しかし再建努力もあった。その根本問題は、まず生産力発展の力を示して資本主義の生命の健在を実証すること、また労働者階級の資本からの離反を食い止めることでした。生産性向上運動は、この二つの課題を見すえて、労・資の共存・共栄のイデオロギーで挑戦したものなのです。だからそれは労資協調運動だった。
 だいたいアメリカ的最新技術などと言ったところで、どんな機械も人間労働と結びつかなければ動かない。労働は常に資本主義生産における反乱要因だが、この反乱が実現されるかもしれない時代において、資本側もいい加減ではいられない。第二次世界大戦後は、資本主義における労資協調の新時代なのです。
 戦後日本は、労働運動の歴史が浅い分だけ危機も浅かったとは言えるでしょう。しかし、敗戦後数年間、権威を失った経営側を、巨大化した戦闘的労働運動が圧倒したことも事実。その記憶は50年代にも残っています。そこで始まった生産性向上運動が掲げたのは、「生産性向上での雇用増大を生かして失業問題に一緒に取り組もう。労資は協力しよう。生産力増大の成果は労資で公正に分配しよう」です。
 新自由主義下の今から見ると、資本側がずいぶん後退したところで防御線を構えたことがわかるでしょう。しかし防御の裏面にはいつでも攻撃がひそんでいます。生産性向上運動は、はじめから労働運動に対して牙をむいていました。
伊藤 晃(日本近代史研究者)
 (次回へ続く)