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私の職場 第4回 国鉄闘争と星野闘争で組合結成!

月刊『労働運動』34頁(0306号09/01)(2015/09/01)


私の職場 第4回
国鉄闘争と星野闘争で組合結成できた!


原 祥吾(しょうご)(徳島医療福祉労働組合書記長)

★介護職場の生活相談員です

―どういう職場ですか。
原 介護職場です。株式会社ユーセイホールディングスの事業所の一つの「ショートステイ昭誠館」で、手束病院傘下です。
ショートステイとは、1泊2日から1週間の短期間、高齢者を預かる施設です。
 しかし現状は違います。特別養護老人ホームの入所待ちの人を1か月ぐらい受け入れるなど、空きベットの稼働率をあげることも行われています。象徴的な言葉に「ショートロングの利用者」があります。ショートステイなのに最大1年ぐらいロングで入っているのです。
 私の職種は生活相談員です。生活相談員とは、家族・施設・利用者本人の間の連絡役・調整役です。たとえば、新規入所のAさんに、今までの仕事などの生活歴、病歴、どんな薬を飲んでいるか、アレルギー、カロリー制限、塩分制限などを聞き取りして、介護現場に伝える要の役目です。私が知る限り、国の規定は「厚労省・基準省令187条 指定特定施設入居者生活介護事業者は、常に利用者の心身の状況、その置かれている環境等の的確な把握に努め、利用者又はその家族に対し、その相談に適切に応じるとともに、利用者の社会生活に必要な支援を行わなければならない」ぐらいです。このようにショートステイの生活相談員は、国が明確な基準を示さず、「何でも屋・調整弁 」扱いをされ悲鳴が上がっているのが現状です。
 職員数は、グループ全体で500人位。私のいる昭誠館は15人です。管理職は施設長1人。介護職員が10人。パートの介護職員もいます。看護師、管理栄養士、事務員もいます。
 始業時間、就業時間は、介護職は早出(7~16時)、遅出(11~20時)、夜勤(17~翌10時)の3交代。私は9~18時です。休憩は1時間です。夜勤者は一人夜勤のため、休憩時間が取れていません。

★介護職場は人手不足です

―仕事の内容を教えて下さい。
原 介護職兼務の相談員です。主な仕事は、食事・排泄・就寝にかかる介護です。週2回の入浴もあります。ユニットケアというやりかたで、個室からフロアーに集めて集団にして介護しています。認知症が進んで、自力生活が困難な方が入所されています。常時、「見守り」が必要な状態です。
 職場は常に人手不足です。東京から地方への介護移住など、とんでもありません。
 特に問題点は3点あります。
①経営側が職員養成の期間を取らない。そもそもプラン自体がなく「見て覚えろ!」というその場しのぎです。
②技術継承がされない。一つひとつの介護動作がそれぞれの職員の「カン」で行われています。曰く「毎日がロシアンルーレットです。この人にはこういう食べさせ方の介助の仕方でいいんだろうか。この人にはトロミを入れるか入れないか、誤嚥しないだろうかなど、仕事が終わったらヘトヘトです」。
③職員間のコミュニケーションが寸断されている。先輩によって、シーツの畳み方が違う、スプーンの置き方が違ってやり直しをさせられるなど。
 そして、職員の流動化も激しいです。私はまだ5年目ですが、今の職場の最古参です。数カ月で自主退職する人もいます。最短は3日でした。
 腰痛は職業病のようです。入所者で体の大きい人も、一人で介護しなくてはなりません。夜勤などは特に大変です。厚労省も介護職場は「メンタルヘルス」と「腰痛」を指摘しています。腰痛は労災認定されないと言われています。
 日中でも最大10人を1~2人の介護士で見守ります。同時に2人の利用者からナースコールや用事を頼まれた時、一人しか見守りがいないと対応が遅れたり見守りがおろそかになります。
 転倒しやすい利用者で、本当は 歩けないにもかかわらず、認知症で「自分は歩ける」と思い込んで立ち上がろうとすると、転倒してしまいます。かといって、その人だけに関わることもできません。
 とりわけ問題なのは一人夜勤です。団体交渉でも、安全問題の焦点になっています。
 仮眠もとれず、休憩もできません。いつ何が起きるかわからないという状態が続き、極めて不安と緊張が強いられます。翌日も熟睡できません。
 実際、広島では一人夜勤が原因で利用者が転落して死亡したことで、介護士が逮捕され、遺棄致死の罪に問われています。
 この点を団交で鋭く追及したところ、経営側は「緊急時の対応マニュアルがある。どこに電話するか、救急に電 話してどうするかが書いてある」「一人でも二人でも事故は起きる」などと団交で発言し、怒りの的になっています。「オンコール(夜間に帰宅しているナースに電話)」すると看護師に負担になり、現場は判断に迷います。この現実は国鉄・分割民営化で階級的力関係が破壊されたからです。

★徳島医療福祉労組との出会い

―労働組合はあるのですか。
原 分会結成は、国鉄闘争と星野闘争の力で実現しました。偶然にも、2015年6月30日、動労千葉の解雇撤回裁判の最高裁上告棄却決定の日に分会通告しました。
 2010年、私はようやく今の職場に就職できました。自分は障害者です。リーマンショックの時と就活時期が重なり、就職が全く決まりませんでした。障害もあり、「どうせ自分なんて......」という思いがあり、不安で自信がなく、就活も遅れてしまいました。
 ようやく就職できましたが、就職した時から労組を作りたいと思いました。理由は、相談員で採用になったのに、始めの4年間は相談員の業務は全くさせてもらえなかったからです。人員不足が慢性的に続き、相談員の仕事は教えてもらえませんでした。介護業務ばかりでした。
 いつまでこの状況が続くのか。人が次々に辞めていき、いつになったら相談員になれるのかめどさえつきませんでした。
そんな中、一番仲の良かった職場の青年が「もし転倒事故、誤嚥などやったら2億円の賠償にあう。こんな職場は早くやめたい」と言って職場を去りました。なすすべもありませんでした。
 その過程でマルクス主義と出合い、徳島医療福祉労組と知り合い、動労千葉の反合・運転保安闘争を知りました。「事故の責任は全て資本の側にある。労働者側にはない」という動労千葉の船橋事故闘争からの反合理化・運転保安闘争に共感しました。ちなみに、JR連合傘下のJR四国労組は「事故の責任は労働者側、経営側の双方にある」と主張しています。これだけ人員が削られ、労働条件が切り下げられていて、なぜ労働者側に責任があるなどと組合側から言い出すのか、怒りがわきます。

★仲間づくりに格闘した

―仲間づくりを話して下さい。
原 私は国鉄分割・民営化の1987年生まれです。動労千葉の解雇撤回高裁署名が仲間と労働運動の話をする大きなきっかけになりました。それまでは職場で労働運動の話はできませんでした。
 11月集会のタブロイド判と署名用紙で、署名をお願いしたところ、40代の女性の同僚から強烈に反論されたことがありました。「私は国鉄分割・民営化の頃をリアルに見てきた。あなたは若いから知らないかもしれないけど、国鉄の職員は働かなかったからクビになって当然だ」「働かなくてもみんな平等という考え方を言うなら、ソ連みたいになる」と言われて、その時はちゃんと対決できませんでした。しかし、そういう反応を受けつつも、署名をもらい、物資販売に協力してくれました。
 しかし、それですぐ組合ができたわけではありません。繰り返し、機関紙や署名、各種のビラを渡してきました。
 自分が施設長からパワハラを受けて「早く通告して闘いたい」という時期がありました。しか し、労組の委員長から「団結を総括軸にした闘いをすべきだ。どうしても君の心が持たないなら通告に踏み切るが、できるだけ個人の救済的にならない闘いをしよう」「団結の拡大で対決しよう」と話を受けました。
 しかし、事態はすんなりとはいきませんでした。まず、職場で物販に協力してくれた人に「話がしたいので時間をください」と持ちかけましたが、「そこまではちょっと」と拒否され続けました。6~8か月その状態でこう着し、もうこれ以上先に進めるのかわからなくなりました。そこで、執行部で討議して「長時間話をすることを求めないで、短い時間でも話をすることができるなら、その5分に全力を傾けよう」という議論になり 、再度踏み切りました。仕事帰り、立ち話をしたりもしました。
 しかし、集会の参加までに至らない状況が続き、なんとかしたいと思いながら具体的な策が出てきませんでした。
 仲間に、組合通告をめぐり討議しようと話しかけたところ、「自分は興味ないから当分ほっといてほしい」と言われました。それでも「一人との団結をおろそかにしたら全体が団結できない」という鈴木コンクリート工業分会の教訓から、どれだけ拒否されても努力を惜しんではいけないと思い、彼の帰りを数時間待っていたこともあります。
 通告した今でも、職場の組合員との団結形成にはかなり苦労しています。
 そのうち、徳島医療福祉労組の保育園分会での春闘団交要求、その報告ビラ、国鉄闘争の資料などを職場の仲間に見せせ、具体的な労組の闘いを示しました。この保育分会の要求書で、闘いの反応が連鎖し、労組の団結の力を感じてくれる仲間ができました。そして分会結成に至りました。
 国鉄闘争全国運動の速報、外注化阻止ニュース、『月刊労働運動』などは大きな力になったと思います。
 そして私たちにとって、星野闘争は、新自由主義の資本に「絶対反対の闘い」を職場で貫くための拠り所です。ここに尽きます。自分としては、絶対反対を貫くのはしんどかったです。職場の仲間と話がしにくくなったり、仕事がしにくくなったりした時に、そこまでして絶対反対を貫く意味があるのかと悩むことも多くありました。『愛と革命』(無実で40年獄中に囚われている星野文昭さんと連れ合いの暁子さんの本)を読んで、15頁の「無期を強いられ、権力への怒りはあっても生き方そのものに一度も悔いたことはありません」これを、自分の目標にしたいと思いました。
 さらに、三里塚裁判での星野さんの発言に「全ての人間が人間らしく生きられない限り自分も生きることはできない」というのがあります。動労千葉が国鉄分割・民営化後の物資販売で、全国の労働者との団結を作ったのと同じ精神で、星野さんも闘っていたのだと思いました。
 動労千葉の滝口誠さんには、物資販売のオルグに来てくれた時、いつも励ましてもらっています。厳しい局面の時は、国鉄闘争の現場で頑張っている動 労総連合の青年の照沼靖功さんや、北島琢磨さん、木科雄作さんの顔が浮かびました。こういう絶対反対の闘いをやっているのは自分だけじゃないと、励みにして頑張れました。
 組合では、自分の職場の話ばかりするのではなく、階級全体の立場で考える書記長になることが大事だと、今でもしばしば激しく討論します。

★団結で力関係を変える

―資本との闘いを話して下さい。
原 第一回団交では、4点で激突しました。①パワハラの謝罪、職員養成の不備を直すこと、②事故の責任は全て経営側にあることを認めること、③一人夜勤の撤廃、④賃金を手取り20万円、サービス残業と評価制度の撤廃、業績評価でカットした私のボーナス7万円を支払うことなどを要求しました。
 資本側は「配置転換は全て合意のもとで行っている」と言い放ちました。とんでもないです。
 施設長から相談員の仕事を十分教えられないにもかかわらず、「相談員業務は何か、紙に書いて提出しろ」と言われました。これを逆に団交で、当局側は相談員業務をどう考えているのか追及したのです。当局は、「国も3行しか書いてない。しかし、切れた電球を変える、クーラーの室外機の掃除なども含む。そうでないと職場が回らない」と回答しました。
 私を罵倒したあげく壁を力任せに叩く、ファイルを床に叩きつける、ドアを全開にし大声で叱りつけるなどの行為がありました。しかし私へのパワハラを団交では、「記憶にございません」と回答したのです。資本との闘いはこれからも続きます。
 この現実のなかで、青年と話していると、「資本と闘うよりも、資格を取って資本との闘いを有利に進めたい」という意見も聞かれます。高い資格に走ろうとしたこともあります。組合と話をしても今の現状は変えられないという思いからでした。
 私も事態を悲観的にとらえがちです。しかし、そんな時、労組の仲間や全国の青年と討議することで、自分が切り開いている地平に気付かされること、励まされることが多々あります。
通告後にも、資本が国鉄署名や物資販売への協力者を狙い撃ちにして、「組合がビラをまくのは迷惑だとみんなが言っている」と施設長が私に言ってくるなどしています。しかし、職場の同僚に話を聞けばそんなことはありませんでした。この不当労働行為との対決もしなければならないと思っています。
 資格よりも、団結の力で力関係を変えていこうと思います。
―労組交流センターへ意見や注文があればお願いします。
原 連合に代わるナショナルセンターとして作っていきたい。介護でも、戦争賛美のUAゼンセン系クラフトユニオンや、医労連との組織合戦です。労組交流センターこそ、労働者のために闘ってくれる組合組織だからです。動労総連合みたいな団交権のある全国組織を、全産別につくりたいと思います。
 (インタビュー)