■戦後労働運動史の中から 生産性向上運動の真実(2)

2019年7月31日

月刊『労働運動』34頁(0302号09/01)(2015/05/01)

■戦後労働運動史の中から

 生産性向上運動の真実(2)

生産性向上運動の真実(2)

 生産性向上運動は、日本労働運動をすぐには巻き込めませんでした。右派は応ずるけれども、総評は最初問題にしなかった。ところが、案外なところから水がしみこみ始めます。アメリカ式生産に学べといっても具体的にわからないことが多い。そこで、この運動の初期の重点は、アメリカへの見学団を労・資双方から募ることです。これが魅力だった。いまから五〇年以上前、アメリカへの長期旅行など、一般庶民には夢のような話です。何年もしないうちに、総評加盟組合の中堅幹部のなかに見学団参加者が増えました。
 もっと大きな問題は、一九六〇年代の高度経済成長です。この時期、大経営はアメリカ的生産方式をそれぞれ自分なりにこなすことに成功し、生産力の向上、つまり生産性向上がかなりの程度実現したのです。これに伴って賃金はゆるやかだが上昇したし、失業の苦痛も遠のいた。労働者の生活は豊かになった。
 現在私たちが新自由主義から守ろうとする生活水準、かなりの耐久消費財も持ち、住処も確保でき、子どもを高校に進ませられる、これらはこの時期からのことです。労働者の間に、また労働運動思想に、「生産性の高い社会」の中で自分を考える感覚が当たり前のことになってきました。
 よく見れば、よいことばかりではなかった。好況のなかで雇用が拡大したことは確かだ。しかし「生産性の成果の公正な分配」はどうか。むしろ資本側は「生産性が向上した範囲での賃上げ」をスローガンに、労働運動側の「大幅賃上げ」と戦います。「もっとよく働けば賃金も上げてやろう」と言うのですが、本当は、実現した賃上げは労働組合の絶え間ない闘争によってはじめて資本側からもぎ取ったものだった(春闘はそのための戦いでした)。
 労資協調はどうか。一九六〇年代は、特に民間の大経営で、職場での労働者の権利、職場規制力が決定的に後退し、息苦しさが募った時期でした。それを容認してはじめて、当時の右派組合のように、資本から労資協調の相手方にしてもらえたのです。
 最大の問題は、生産性向上の成果の分配が、せいぜい大企業・公営企業の「日本人の男性の正規労働者」にしか行き渡らなかったこと。日本人と外国人、男性と女性、本工と臨時・下請との分断は昔からあったことですが、この時はそのことへの批判の意志をむしろ弱めたかもしれません。そして労働運動の視野は、左派(総評)においてさえ、生産力の目のくらむような飛躍の中でおこぼれをどれだけ受け取れるか、に限られていきました。生産性向上時代に作られた、この労働運動、中堅労働者の意識が、その後の経済の変化についていけないまま、新自由主義時代のこんにちに残されたのです。
 今回は話が少し先走って現在に近づきました。次回は、また一九五〇年台に立ち戻ることにします。
伊藤 晃(日本近代史研究者)