理論なくして闘いなし第7回 港合同の闘いの教訓

2019年7月31日

月刊『労働運動』34頁(0325号08/01)(2017/04/01)

理論なくして闘いなし 闘いなくして理論なし 第7回
★港合同の闘いの教訓

労働者への攻撃を団結権の問題として反撃を組織する

労働組合の旗が1本あれば地域の労働者が結集してくる

木下 浩平(全国金属機械労働組合港合同昌一金属支部書記長)

マルクス主義講座として動労千葉労働学校の講義の抜粋を掲載しています。【3月18日の講演から抜粋】
 港合同で執行委員をしている木下です。今日は港合同の闘いの教訓と、大阪の現状などを話したいと思います。
 昌一金属支部も17春闘の真最中です。16日に回答があったばかりで休み明けに2回目の交渉を設定しています。腹の立つほど回答が悪く、昨日から妥結まで構内集会、構内デモをやっています。港合同全体の春闘の山場はもう少しあとになります。

港合同は金属労働者中心の組織

 港合同は金属労働者が中心になっている組織です。しかし、実態的には南労会支部は医療機関です。運送や印刷、警備会社や専門学校など、様々な業種の地域合同労組でもあります。私の昌一金属がそうであるように、金属労働者がいろんな支部や一人分会という中で拠点の役割を担って存在していることで、小さなところは沢山あるが、何か大きなことがある時は非常に大きな闘いを組織する事が出来ることを示してきました。
 韓国の民主労総とのつながりは11月集会を軸にして深まってきました。韓国に行った時、いつも会場を押さえる役割や、権力との激突の最前線に立っているのはいつも青い旗です。これは韓国の金属労組の旗です。やはり韓国でも金属労組とはものすごい戦闘性がある、力を持った組織であると思いました。
 日本でもかつて民間の闘いの中心には、総評の全国金属が闘いを体現してきたことに密かに自負を持っています。「昔陸軍、今総評」という言葉があります。僕が初めて聞いたのは昌一金属支部の35周年のパンフにあった言葉です。「昔陸軍、今総評」、「泣く子も黙る鬼の全金」。ところが、ここに来ると「鬼の動労」になるんですよね(笑)。どちらが本当なのか、時代的には全金が本当ではという話になったが、それくらい動労や全金が日本の労働運動の歴史の中で闘う存在としてあり続けてきたことを示していると思います。そういう伝統ある金属の労働運動を引き継ぎ乗り越えながら、港合同、僕らの闘いはあると思っています。
 前回、港合同の中村委員長が橋下との闘いで大阪市における攻防に港合同がどれほどの思いをもって闘ってきたのかということで講演しています。僕は港合同に入ったのはこの20年ほどです。だから僕は20年の中に現れてきたこと、僕が感じてきたことを中心に話したいと思います。

港合同がどう闘っていくのか問われる局面が多かった20年

 1995年1・17阪神大震災の9月に昌一金属に入社し、年末に僕は組合員になり、その直後に港合同への大弾圧に遇いました。95年6月14日にあった南労会のストライキに対する96年2月20日の大弾圧でした。
 そして、98年5・28の国労1047名解雇撤回闘争に対する東京地裁の反動判決の後、3労組共闘(港合同、関西生コン、動労千葉の共闘)ができて、11月集会が出発したこと、そしてJAMとの訣別があり、直近では港合同のかけがえのない指導者である大和田幸治委員長が急逝されました。そして南労会闘争が22年間の闘いで解決したことなど、これまでの細川鉄工暴力ガードマンとの闘いや田中機械自己破産突破闘争など港合同を代表する争議と違って、ある意味では港合同がこれからどう進んでいくのか、どう闘っていくのかが問われる局面が多く表れた20年だったと思います。それまでの金属を中心にした闘いを土台として、新しい連帯や団結の中身を僕らが作っていく過程に入っているのではないかと思います。

国鉄闘争の取り組み

 今、港合同が取り組んでいる大きな闘いは、一つは国鉄闘争です。11月集会が示している通りで、国鉄闘争全国運動を大和田委員長も呼びかけ人となり、関西の連絡先を港合同田中機械支部において取り組んでいることに表れています。尼崎闘争が4月にありますが、港合同として全力で取り組んできました。

大阪市をめぐる攻防

 もう一つは大阪市をめぐる攻防です。入れ墨アンケート調査の処分撤回闘争に、港合同は精力的に取り組んできました。主要には同じ地域で共に闘っている大阪市職西区役所支部の支部長だった竹下さんと、建設局の赤田さんの闘いに連帯して共に闘っています。
 港合同は金属機械で地域の民間中小の組合です。それが国鉄闘争や大阪市の公務員労働者の攻撃になぜ共に闘おうとするのか。「企業の枠を超えて」あるいは「地域の枠を超えて」の闘いです。この闘いには、直接の雇用関係はないわけですが、僕ら港合同が掲げてきた団結権を考えた場合、労使の攻防はすべて団結権をめぐる攻防です。だから労働者の解雇や処分を放置していたら必ず自分達にも影響を与えることになるからです。
 特に国鉄闘争は、大和田委員長が以前に言われていたそうですが、「全国津々浦々まであって全国に影響を与えてきた国鉄闘争を闘う中に労働運動を本当に甦らせていく道があるんだ」と。労働運動を甦らせよう、労働運動が力を取り戻さないといけないと考えた時に、南労会闘争を22年間闘ってきたが、国鉄闘争の中で作られる闘う労働組合のネットワークを使って、港合同の団結権、港合同のこれまでの闘いを発信していこうと、国鉄闘争、11月集会などを取り組んできました。
 だから大阪市の問題も同じです。公務員労働者にかけられた攻撃を対岸の火事とすることは出来ないと。共にスクラムを組む仲間にかけられた攻撃が、僕ら自身にかけられた攻撃であると捉えて闘うことです。港合同も70年、80年代に多くの争議を闘ってきた中で、僕らが困難な闘いをしている時に、地域の公務員労働者がいろんな形で支援・連帯してくれました。民間が困難なときには公務員労働者が支える。公務員が前に出れないときには民間労働者が前に出ると、そういう官民連帯という地域です。大阪の橋下の攻撃は、公務員労働者をさげすみ、分断しバラバラにし切り捨てていくあり方でした。それを自分達も絶対に許せないという思いで闘っています。「入れ墨」で今、処分撤回を闘っているのは6人です。しかしその中で、2月10日に行われた赤田さんの人事委員会では、「団結権をめぐる攻防であり、組合潰しの不当労働行為」ということを軸において論を張るということで、僕もその代理人を引き受けて共に闘っています。その上で2012年3月17日に大和田委員長が亡くなったことは、僕らにとってはとても大変なことです。亡くなる1週間前に大和田委員長が「大阪市の橋下をめぐる攻防で団結権とは如何なるものか、団結権は労働者全員にある。官民労働者の連帯で、巨大に見える敵であっても弱点のない敵はいない。執念をもって闘えば必ず勝つ」と講演しました。
 今、大阪市従の下水道支部ですが組合は民営化に反対していない。「民営化される会社にみんなでいこう」と方針を出し組合員に説明会までしている。しかし、現場から80人を超えて民間会社に転籍拒否を宣言する労働者が現れている。未だに橋下が当初目論んだ公務員労働組合を叩き潰すことが出来なかった。僕らは、公務員は公務員のこと、民間は民間のことだけでなく、公務員の中に闘いの芽が生まれれればその一つひとつが労働組合を甦らせていくきっかけになる、そういう支援連帯を強めて闘っているところです。

1999年は印象深い年

 1999年は僕にとってはものすごい印象深い年です。一つは僕を支部に入れてくれて、労働運動のすごい師匠であった当事の支部委員長で、港合同副委員長をしていた浜里委員長が4月に職場の不慮の事故で亡くなったのです。
 99年は、港合同への倒産・破産攻撃の第一波が来ます。2003年くらいまで7支部分会、細かいとこまで含めると13くらいの職場に、倒産・破産攻撃がその期間に集中してかけられます。
 さらにその前段から、JAM(全国金属機械)結成の話が来ました。時期的にはJAM結成の話が先です。JAM結成に併せて大阪レベルで金属機械の大阪地本と全金連合などの交流会が個別具体的に始まっていきます。その時から港合同には声はかからない。当事の大阪地本と港合同は相当喧嘩をしていました。その時には、港合同の各支部・分会を僕も一緒に回って、連判状みたいな物を集めて回ったのを記憶しています。港合同はこんなに支部・分会があるのかと思うくらい、本当に小さい所ばかり回っていきました。最終的に、当事の金属機械本部がその非を認めましたが、JAMに全員出ていって、港合同は全国金属の流れを唯一継承して闘っている存在です。
 その上で、98年から11月集会が始まり、3労組共闘という形で動労千葉と関生と港合同の共闘がスタートしました。99年に至る過程で、JAMは港合同を徹底的に排除した上で、港合同がバラバラにならない限りJAMには来てはならないと言ってきました。それを港合同が頑として受けない、対決して組織を守ると選択した瞬間から、倒産・破産攻撃が始まりました。
 動労千葉も一貫して組織攻撃との闘いは続いてきたと思いますし、関生も80年代の弾圧攻撃と2005年から始まる弾圧がありました。港合同も2000年を挟んで3労組が共闘する過程で、本当に叩き潰す攻撃がかけられていたと思います。実際にその時に破倒産に見舞われたところは、古くから数的にもまとまって存在していたところです。その中で今も自主生産で残ってがんばっているところもありますし、職場占拠から敢然と闘いぬいて勝利的に終結したところもあります。やはり港合同総体としては、躍動的な地域闘争を展開するには大きな困難な状況にあるように思います。関生で139日のストライキやったという華々しい話は、今の港合同ではお披露目することは出来ませんが、僕は、あの過程で組織をどんな形であっても潰させずに守り抜いて、今の時代にその旗を立て続けている意義は決して小さくないと思います。

昌一金属支部の闘い

 もう少し支部の話をしておきたいと思います。僕が所属している昌一金属支部は組合員が50人、民間の小規模企業です。組合が結成されたのが1960年2月で港合同の中では最古参の支部です。当時、田中機械は同盟金属を脱退して、1964年に総評全国金属に加盟しました。その前からあるのが昌一金属支部です。劣悪な労働条件に当初3人の労働者が声をあげた。昌一金属という会社は、全国10電力のうち9電力に電柱の金具を納めている会社で、上る足場からトランスを載せる台まで電柱についている製品は、東京電力以外、全部に入っている。いわゆる電力関連産業下で架線金物工業といわれる業種の会社です。一昔前であれば準公共事業で、74~75年恐慌の時に、「神風が吹いて」、不況になれば儲かる会社でもありました。
 昌一金属支部は長い組合結成以来の歴史はあるが、実際には港地域の中でいろんな争議が闘われる中で、大争議の歴史はない。しかし、地域の幾つもの争議支部に昼休みの集会、夜は泊まり・張り付け、破倒産争議を闘う各支部には自主生産を支えるために経営に仕事の発注を要請し、また人員を派遣することもありました。絶えず争議支部支援の闘いを続けることで自分トコの労使関係も安定させるとやってきました。
 しかし、3・11フクシマは、うちの労使関係にとっても重大な転機になったと思います。福島原発事故以降、特に関電は原発依存率が高いところで、大飯や高浜などの原発が再稼働できず、電力の全面自由化も始まる中で、発注が減ったり、コストダウン要請が来て、企業体として置かれている状況は厳しいものがあります。
 昌一金属は全員正規の職場です。1969年に臨時工の本工化を勝ち取ったのです。しかし去年の春闘の時に経営が初めてパート導入を提案してきました。労使関係の重大な転換の所に来ていると思います。「パート導入」提案は団交の席で提案の瞬間に蹴って、経営はそれ以降沈黙しましたが、4月に入って春闘の中間総括の全体集会の頃、過激派キャンペーンで「闘い過ぎるのはどうなのか」「11月集会に行っていていいのか」などと突如組合員の中から意見が噴出、定期大会では僕に対する書記長対立選挙がやられた。社会のあり方が大きく転換を迫られる中で、より闘おうとするのか、今までの延長ではいかない情勢の下で組合員の中でも動揺が始まったのだと思います。
 今、大事なのは支部が支部として団結することです。港合同は港合同としてちゃんと団結する。この力でもってガンと地域に登場する。あるいは地域の結集軸となって全体を結集させる方針を出していくことが求められていると思います。特に昌一金属支部は港合同の中では非常に若手が多い職場、僕で50人のうちの上から10番目くらい(笑)、あと全部若手です。これまでの闘いを引き継ぎその中身を本当につかんだ上で、この時代に本当に通用するところに成長していかなければいけないと思います。
 魅力ある労働運動、港合同の歴史や闘いを学ぶことは大好きですが、自分が一番空気入ってるものを本当に支部の仲間と共有して新しい労働運動、これからの時代に通用するものを共に作っていく支部にしていきたいと思います。

団結権問題として反撃を組織

 港合同が貫いてきた闘い、すべての労働組合・労働者にかけられた攻撃を団結権の問題として反撃を組織する闘い方がこれからの時代に必要です。労働者が虫けらのように切り捨てられたり、非正規に突き落とされたり、賃金や労働条件が簡単に変えられていく。あるいは公務員として就職した人が民営化によって知らぬ間に民間に置き換えられていく。そういう人たちがそのまま黙っている時代ではない。下水道の労働者に表れているように、怒りが職場に渦まいているのは本当にその通りと思う。そこに組合の旗が1本あればそういう労働者がすべからく結集してくる時代になっていると思います。だから今は単純にそう見えなくても、その職場に闘いの旗が1本あるのかどうか地域の中にそういう怒りが結集できる組合の旗が、闘いがあるのかどうか、それがこの時代を一気に変えていくものになっていくと思います。それは京都府職舞鶴支部との交流と原発再稼働阻止の闘いを共にすることを通しても感じています。
 今組合がそこに立っているかどうかによって、地域全体が本当に怒りを怒りとして表現していけるというものになる。そういう意味で、僕らがこの地域全体を闘いの拠点とする考え方であるとか、全体を引き上げることを通して自らも生きていく。そういうあり方、考え方で闘っていくことで労働運動をもう一度甦らせていくことも可能なのではないかと思います。
 その思いの中で、この春闘も闘っています。うちの組合員は普段はいろいろでなかなか団結とか難しいですが、毎日、早朝か昼休みかの違いはあっても構内集会と構内デモを、この春闘の期間、毎日全員でやっています。地域の動員がいっぱい来ても割り振って、皆しっかり応じてやってくれています。皆がすごいことやっているんだ、こういう力で支部の労働条件も大きく守られているし、そういう闘いを自分の友達の職場に、地域の職場に広げていこうと、いろいろ学習会をやったり懇談会をやったりしながらやっています。なかなか簡単にはいかない。労働組合そのものが見えない時代で、職場にいる時、ハチマキまいた時は組合員の顔になってくれる労働者もひとたび家に帰れば普通の人、パチンコやったりゲームやったりしているが、だけど組合員として存在している彼らはやっぱりその意識は確実に違います。「昨日、木下さん言ってたことをニュースでもやっていた」とか言ってきます。「お前そんなことよく知ってるな」(笑)と。
 今回の17春闘で経営が回答してきているのはわずか1000円です。確かに経営状況は悪いのでそういう回答は想定内ですが、だけどその回答ひとつに、労働者をなめていたり、組合をなめていることを、うちの執行部は感じています。だからこの中身を本当にはっきりさせて闘い抜いた時に、組合員の意識は確実に次の段階に、改めて労働組合を軸にした労働者の考え方をしっかりつかんでくれるのではと思っています。17春闘をしっかりと闘って、4、5、6月と、今年前半も何が起きるかわからない時代です。本当にニュースに目が離せない中、大きくは6月国鉄闘争全国運動の集会、前半戦のひとつの集約点として、そこに向かって関西の地でも僕らが中心となって、田中委員長から出された「目に見える労働者の闘いの旗」をしっかり振って、これからも頑張って闘っていきたいと思います。