戦後労働運動史の中から 第11回
戦後労働運動史の中から 第11回
総評の平和四原則
1950年結成の総評(日本労働組合総評議会)は、はじめアメリカ占領軍の後援で作られたものでした。しかし、その姿勢はすぐ変わりました。冷戦下でアメリカが日本を軍事同盟(安保条約)に引き込む形での講話・占領解除をはかったとき、総評は正面からこれに対立する立場をとりました。51年春の大会で「平和四原則」を決定したのです。ソ連(今のロシア)や中国を含まないアメリカ勢力だけとの講話に反対する「全面講和」、「再軍備反対」(自衛隊の前身・警察予備隊は50年に創設)、「中立堅持」、「米軍基地反対」の四原則。これに総評内右派は反発しますが、主流となった左派は多くの加盟単産に四原則を確認させ、その後総評は、日米安保条約反対を軸とする革新勢力の中心の位置を占めることになりました。
国鉄労働組合(国労)の動きは劇的でした。国労では、前年の大量解雇反対闘争の失敗の過程で右派(民同派)が権力の手助けで左派(共産党系)を指導部から追放してしまいました。ところが、この民同派の中に岩井章・横山利秋らの若手が台頭してきます。51年6月の大会を前にした中央闘争委員会で、企画部長の横山利秋が平和四原則に立つ方針案を提案、これに右派が猛反対して対案を出します。これを作ったのは星加要。右派の大ボス、四国から出てきた助役上がりの剛腕の人です。激論の結果、右派案が辛勝しました。大会ではこの中闘原案を企画部長の職責上、横山が提案します。ところが代議員から「もとの横山案も説明しろ」と動議が出る。両案が説明されて討論のあげく、圧倒的多数で横山案が承認されたのです。
この逆転劇が重要です。そこに民衆意識の背景があるからです。これは憲法にかかわることです。日本国憲法は、ご承知のとおりアメリカの指導でできたもので、支配階級・民衆を含めた広い憲法創設闘争を経て決まったのではない。当然、各条項をどう解釈し、どういう形態で実現するかの考えはまちまちで、そこに長く続く対抗が生まれます。第九条についてもそうで、日米安保条約下、「軍事的国際協力による平和」という形態で九条を実現しようとする支配階級に対して、民衆側にも九条は非武装・軍事同盟反対を意味するという考えがこのころ広く生まれました。そこには長い悲惨な戦争を経てきた民衆の反戦意識があります。総評はこの民衆意識を運動の中で表現したのです。労働運動を中心「として民衆は、憲法の理念に導かれるだけでなく、支配階級に対抗して自ら九条を「創った」と言ってもよいでしょう。労働運動はかつて民衆のなかで、そういう力と重さをもっていました。
なお、平和四原則の精神をいまも引きついで民衆運動の先頭に立っているのは、だれが見ても沖縄の運動でしょう。そこでもう一つ思い出されるのは、51年当時、労働運動全体が沖縄の現実を知らず、関心も持たなかったことです。この弱点は今日もひきつがれているように思います。
伊藤 晃 日本近代史研究者
1941年北海道生まれ。『無産政党と労働運動』(社会評論社)『転向と天皇制』(勁草書房)『日本労働組合評議会の歴史』(社会評論社)など著書多数。国鉄闘争全国運動呼びかけ人