■戦後労働運動史の中から 第21回

2019年7月31日

月刊『労働運動』48頁(0300号13/01)(2015/03/01)

■戦後労働運動史の中から 第21回



■戦後労働運動史の中から 第21回

近江絹糸の人権争議(2)

 要求内容をメディアが報道すると、世間は会社のあまりの時代錯誤にあきれて、同情は組合側に集中しました。社会の民主化への希望が広く存在した時代です。いま大小のブラック企業の状態が伝えられても世間に怒りの声はあまり高まりませんが。
 ところで、各工場で従業員が呼応したときも、先頭に立ったのは男性の青年労働者たちだったようです。とくに通学の自由で会社に反感をもつ人たちの働きが目立ちます。彼らに促されて女性労働者も大量に加わってくる。
 日本の繊維産業は昔から若い女性労働者が圧倒的に多い。しかし運動の男性主導は戦前から一般的でした。15、16の少女たちが先頭に立って運動を作ることは大変難しかった。いざストライキとなれば、この女性労働者たちが創意に満ちたエネルギーを発揮することは多かったのですが。
 さて、会社側は御用組合を第三組合に再編し、団交を頑強に拒否し、暴力団を導入して必死にがんばります。これに対して労働者の団結は固く、ふだんは「穏健」な全繊同盟が組織をあげて応援、労働運動全体、さらには世界の労働運動にも連帯の動きがあって、組合側が押し気味で争議は長期化しました。
 ここで気が気でなく乗り出したのが政府と財界です。実はこの争議は日本資本主義にとって容易ならぬ事態を引き起こしかねなかった。前回ふれたような戦前日本の低賃金・低労働条件を武器にした世界市場荒らしは、世界中の猛反発を受けたものでした。日本は国際資本に糾弾され、女性の深夜業をやめるなどの妥協をせざるを得ませんでした。近江絹糸のでたらめさは、国際資本のこの記憶を呼び覚まし、戦後再開された対外輸出をつまずかせるのではないだろうか。
 財界は労働者の運命などどうでもよいが、自分たちの利益を考えれば近江絹糸を放っておけなかったのです。財界は有力者数名を送り込んであっせんに乗り出し、会社側を説得します。「この争議では組合を崩すのはムリだよ。組合を認めて団交に応じなさい。労働協約を結んで組合の要求に対処しなさい」。それでも会社側はダダをこねて抵抗するが、紆余曲折の末とうとう屈服しました。100日を越す争議はほぼ組合側の全面勝利に終わりました。
 近江絹糸の「非近代性」は当時、実際には特異なものではなかった。低劣な労働条件の中に忘れられている労働者がたくさんいました。近江絹糸争議勝利に刺激されて、そうした労働者、証券取引所や地方銀行の労働者たちもこの年立ち上がったのでした。
 私たちが忘れてならないのは、各産業の大企業はこの頃から「非近代性を克服」して急速な合理化をはじめますが、自分たちに都合のよい「非近代性」、中小企業の低賃金・低労働条件などは置き去りにしたことです。今日のブラック企業につながる系譜は日本経済の深部に生き続け、いま大企業にも生き返りつつあります。
伊藤 晃(日本近代史研究者)