理論なくして闘いなし第2回 確信をもって闘えば必ず勝てる!

2019年7月31日

月刊『労働運動』34頁(0315号09/01)(2016/06/01)

理論なくして闘いなし 闘いなくして理論なし 第2回
仲間を信頼し、確信をもって闘えば必ず勝てる!

山田 護(動労千葉幕張支部支部長)

前号からマルクス主義講座として動労千葉労働学校の講義の抜粋を掲載しています。

私は第1期労働学校を卒業しました。

 外注化の時は腹に穴が開きました。シニア協定の時と幕張脱線事故の時など、腹が痛くなってのたうち回ったのは人生の中で5回あります。
青年部で革マルとのたたかい
 経歴から話します。1976年に国鉄の木更津の運転職場に入った。動労と国労しかいなかった。木更津は40人くらいの小さな職場で青年部も5~6人でした。すぐ支部代表で動員に行かされました。動員に行くと革マルからボールペンで刺されたり殴られたりする。活動家のいないホテルに泊められて2人ずつ50人くらいに囲まれて寝ずにいじめられた。それから労働運動に入りました。革マルが俺たちをいじめてなければ俺はこういう労働運動に入っていません。
 国鉄分割・民営化の時は、小さい職場で青年部も首になる覚悟をして闘った。解雇されませんでしたが処分は受けました。田中委員長や繁沢副委員長、俺らの年代が分割・民営化の後、役員をやって、山田、関(現副委員長)、半田(現車両技術分科会長)も駅、売店に強制配転されました。
 売店は一人ひとりが知らない駅に回され、強制配転されない人も処分、処分でストライキが出来ないほど攻撃を受けました。私は京葉線の南船橋駅の売店に飛ばされた。組合員がいないので本当に不安だった。駅の中のビラ張りもメチャメチャやり、当局は困って「静かにしてくれ」と言うほど相当な問題児だった。本当に悔しくて悔しくて仕方なかった。特に客から支払いを投げられるのが嫌でよく喧嘩(けんか)した。労働者の誇りです。売店はあまり売上がない。でもオートレースが終わって帰ってくるときだけすごい人が買いにくる。こんな要員では無理だと千葉支社に見に来いと言って、要員増もかちとった。昇給もカット、ボーナスもカットされたが、その職場に7年間いました。組合員は各駅にバラバラにされ、運転士や検修から外されても7年間、誰も脱退しなかった。それは勝ちだと思う。とにかく毎日暴れてガンガン行けば向こうも困るし、売店の売上も毎月赤字だし、本部も頑張ってくれて、95年に幕張に戻りました。
 幕張は千葉県内のほとんどの電車の検修をやっていて200人くらいの職場で、動労千葉組合員も100人くらいいたが活動的な職場ではなかった。木更津は気動車だったので電車を触ったことがなく、30歳過ぎてまた一から仕事を覚えるのは大変でした。
 幕張に行った時まず闘ったのは、200人の職場に電子レンジもない。電子レンジをくれとガンガン要求して取った。
 そして有機溶剤という問題が出てきた。ピットに塗るペンキが有毒な有機溶剤だった。経費削減を名目に労働者に危険な作業をやらせた。有機溶剤は専用マスクが必要で窓を開けて換気しなければならない。特殊健康診断するとか、鍵がかかる所に保管しなければいけない。労働安全衛生法に違反していると本部と一緒にガンガン追及した。
 組合員も最初は駅から来た若造が何を言ってるのかという雰囲気だったが、自分たちのことを本当に心配してくれていると信用して味方が増えました。
 労働運動の基本はみんなと仲良くなることでまずは飲むしかない。労働運動は人と人との関係だから、飲みに行って「頑張ってんな」と言われるようにならなくちゃいけないと思った。

シニア制度とのたたかい

 2000年、いよいよシニア制度との闘いです。「何だ、お前生意気だ」と言う人とも毎日話さないといけない。本当に胃が痛くなりました。幕張支部が本当に強くなったのはシニア制度との闘いを通してです。大変な闘いだった。再雇用の最初の対象になるのはほとんど幕張支部の組合員だった。シニアは2001年4月からの退職者が対象で前年4月から面談が始まった。その年9月に、JR東日本本社で検修構内の全面外注化が提案された。シニア制度は外注化を認めなければ組合員を再雇用しないという協定で、動労千葉は当然拒否しました。東労も国労も裏切り締結した。
 その頃私は支部長になりました。外注化が始まるので、中野顧問はじめ執行部から私が支部長をやれと言われた。初年度の対象者は7人で、布施さんがシニアになる人に話してくれて、その人たちを呼んでくるのが自分の仕事だった。2年目からは自分たちでやるしかないと、田中委員長と連日、昼休みと夕方に当該者と話した。
 翌年退職する人は前年4月に面談があり8月に確定するが、8月までに動労千葉を抜ければ再雇用の試験を受けられる。シニア制度の対象者一人ひとりを説得するのが本当に難しかった。何人か脱退者も出た。年金が出るまで働きたいのは誰だって同じです。分割・民営化の時も抜けなかったすばらしい人たちですが、最後は「ここまでやってきたから勘弁してくれよ」と言う人もいるし、「じゃあ、外注化認めていいのか」と穏やかに言ったり激しい言葉になったり、本当に腹が痛くなりました。革マルや当局と喧嘩をするのは簡単だが、組合員で年上の人に自分たちの考えを分かってもらうには真面目に本気で話すしかない。威張っている人が組合抜けたり、抜けちゃうんじゃないかという人が「組合についていくよ」と、本当に毎日怒ったりうれしかったりの連続でした。こういう経験をしてきたからいま何があっても平気です。本当に人と人との付き合いをしてきました。本部にシニアの人の仕事を探してくれと頼んだ。
 シニア制度は何年かしてつぶれました。少数でも曲げずに闘っていれば必ず見えてくるし、俺たちの運動が一番正しい、大きくなると思わなければやってられない。大変だったのは最初の3年間でした。4年目以降は脱退が出なくなった。議論が浸透し、再雇用といってもシニア制度がろくなものではないこともみんな分かってきた。シニア制度で職場は大もめになって、闘いを通して外注化要員が車両整備(CTS)に行く事を止めたから外注化を進めることが出来なくなった。外注化を止めた結果、検修職場で要員が足りなくなり、駅への強制配転者も戻すことが出来た。2005年4月にシニア制度がなくなった。高齢者雇用安定法が改定され、動労千葉が協定締結を拒否したため就業規則化せざるを得なくなり、60歳から働かせなくちゃいけないとなった。動労千葉組合員の排除が出来なくなった。最初に結んでいたら外注化がどんどんどん進んでいたと思う。締結しなかったのは大正解だと思います。
 次は、繁沢副委員長と長田組織部長の強制配転との闘いです。2001年末に2人の配転攻撃があり、不当配転だとガンガン闘いました。毎朝の点呼で「なぜ2人を出すんだ」と当局にワーワー言って追及した。
 そして、非協力闘争で外注化を阻止し、増員を勝ち取った。「新保全体系」合理化が始まり、車両検査を合理化する攻撃で人員削減もやろうとしてきた。幕張支部の中で二通りの闘争に入った。新保全体系の合理化粉砕闘争はうまくいった。きっちり仕事をやろうと毎日4時半に終わっていた仕事を5時とか5時半にもっていった。その結果、かえって人が増えてしまった。日勤職場では日々順法闘争をやってうまくいった。仕業構内は時間外労働・休日出勤を拒否した。しかし当局は対抗手段として年休抑制をする。必要な時に年休が取れなくなって、組合員は結構大変で、文句を言ってくることもあった。それに対しても何を言われても闘いを曲げずに「ふざけるんじゃない」とワーワーやっていた。支部長が喧嘩するのを周りの組合員が見ている、それが支部をまとめた原動力だった。田中委員長は検修職場における反合理化・運転保安闘争だと言ってくれた。
 千葉運転区の畑木さんの配転をきっかけに、動労千葉は、希望者を全員駅から検修職場に戻す、配転者や検修職で希望者は構内運転に戻しハンドルを持たせる、この二つを約束させた。それで14人が運転職場に来た。
 次にレール破断は乗務員のほうが一生懸命やったが、幕張も相当頑張った。構内を歩いて写真にとってそれを団交に出す。歩いて構内の横を走る総武線快速の線路を見る。レールにひびが入ってますとすぐ連絡して、夜レールを変えさせたり、乗務員の安全闘争にも幕張は最先頭で闘った。

幕張構内事故とのたたかい

 いよいよ本題の2番になる本当に腹が痛くなった幕張構内事故の話です。
 06年4月6日に幕張構内で列車脱線事故が起きた。南引き上げ線といって幕張の一番入れ替え作業をやるところで、手前に洗浄機があって踏切の赤いランプがあり、そこにポイントがある。電車の洗浄機の赤が目に入って信号冒進しそうになるからATSをつけてくれと安全衛生委員会で言っていた。事故が起きて一報聞いたときは腰が抜けた。事故を起こしたのはうちの組合員で、傾いた列車見たときは本当に泣きたかった。本人を確保して助けなけりゃと本部にすぐ電話を入れた。そのときは安全運転闘争中だったので闘争中で当局攻めているのに自分の支部が事故起こしちゃって申しわけないという気持ちになった。当局もそういうときにはすごい。本人の事情聴取が午前10時から午後5時になっても終わらない。返せ返せと言って、夜8時半に連れて本部にいった。応接室に寿司がとってあった。ああこれはすごい組合だな。飯も食ってないし、本人は消沈している。そこまでして組合員の話を聞く。そんな大変なときに寿司までとって本人を激励する。俺はやっぱり動労千葉はすげえなあと思いました。
 次の日から構内運転士を明けの時に集めて、負けてられないし本人が首にならないように問題点を皆であげて、職場に出ている人片っ端から呼んで問題点を聞き出しました。事故が発生した箇所は動労千葉が3年前から労働安全委員会のなかで危険だとATSの設置を要求していた。重大事故起きるぞといっていた。そのときのメモがあり、俺の汚い字の証拠を川崎書記長(当時執行委員)が持っていった。事故の責任は、要求していたのにやらなかった会社側にあるということだ。会社に議事録を出せといったらそのATSの設置を求めたとこだけが消されている。一通告一作業もやってないこともはっきりした。五つくらいの工程の作業を一回の通告で済ます。会社側が悪いと5月ぐらいにみんな分かり、闘う体制が出来た。本部執行委で議論して重処分が出たらストライキしかない、徹底抗戦でやろうと腹を固めた。支部代表者会議で本部方針を提起したら「こんなことで首を切ることになったらストライキしかない」という意見が他の支部から出た。「東労組でも運転中の携帯電話で首になっている。明日はわが身だ。脱線事故の責任は本人でなくて当局にある」と皆闘う気になった。当局も管理側に問題がありましたと言わせて、勝ちました。
 今度は、「幕張はとんでもない職場だからああいう事故が起きる」と本社が判断して、偉い人が毎日見に来た。所長も首にして本社からきて幕張を一気に潰すと出てきた。その時の所長が今の千葉支社の運輸部長です。最初に言った言葉が「あの自転車は何なんだ」と。幕張は広いから個人の自転車使う。その後ろに「闘いなくして安全なし」「闘うぞ1号」「不当処分粉砕」とかテープで張ってある。所長もどういう職場なんだと。
 本社から来て一日中職場にはりついて「何で古い作業着をみんな使うんだ」と。会社が言う限りうちの組合員は絶対脱がないが、組合が「今日は古い作業着は着ない。みな脱ごう」といえばパッと脱ぐ。1人で抵抗するのは簡単だが、組合員がまとまって文句言って職場の支配権を取っていく事で闘った。押したり引いたりするのも組合の方針で職場全体が動くのが力、そういうのは会社は嫌がる。小さな問題も執行委員会で決める。
 日々のことが運動になる。当局は休憩室から日刊動労千葉なんか持って行く。国労とか東労組のは持っていかない。泥棒、盗人と言って1枚残らず返してもらう。職場闘争というのはいろいろなことを闘いに生かしていけばいいと思います。
 幕張の構内脱線事故、首だけはさせないと大きな勝利になった。9月29日に出勤停止15日という処分が出た。不当処分だが解雇ではなく15日くらいで済んだのは本当にうちの力が強いからだ。これをやったことで幕張支部がまとまった。幕張事故でもあきらめずに闘えば本当に展望が開けると思いました。

組織拡大の一点にかけて闘う

 これから平成採獲得にいく。仕事も教えたり、おかしいことはおかしいと一緒に仕事をして職場の支配権をとっていく。青年は、金もほしいし、彼女もほしい。でもやっぱり仲間が大事だということを一番教えた。勉強会開いたり、組織拡大はあきらめずやれば必ずできる。まず飲ませて仲良くなることから始めた。あとは仕事をきちんとやる。これから青年部を先頭に組織拡大していきたい。職場の支配権は毎日の積み重ね、引くこともあるし、とことん行く時もあるが、皆でやることです。
 あんまり格好いいことは言えないが譲れないものは譲れない。うちの組合員は本を読むのも勉強するのも嫌いだが、俺らは中野顧問、田中委員長といういいリーダーがいて恵まれた。国労みたいに派閥がない。でも嫌だと決めたら組合員は顧問の言うことも聞かない。そこが感性というか、いい仲間、いい組合だと思ってます。これからも組織拡大一点にしぼって頑張っていきたいと思います。
(3月19日 動労千葉労働学校での講演の抜粋)