理論なくして闘いなし 闘いなくして理論なし 第18回改憲阻止闘争とは(続)
理論なくして闘いなし 闘いなくして理論なし 第18回
改憲阻止闘争とは(続)
山本志都弁護士
国鉄闘争全国運動東京東部の会主催の憲法問題連続講座第1回(6月12日)の山本志都弁護士講演を前号に続き掲載します。
4 改憲攻撃の背景
(1)憲法は統治形態の根本を定めたもの
憲法については、憲法が誰を規制するものかという観点から語られることがあります。例えば自民党案だと憲法は国民を規制するものとしています。「憲法は権利と義務を定めたもので、憲法は権力側を縛る」「国民の権利と自由を守るため権力をしばるために憲法がある」という言い方をされることもありますね。それはそれで日本国憲法の解釈としては正しい。憲法尊重義務が日本国憲法で定められていて、憲法を遵守しなくてはいけない人は国民ではなく、天皇や公務員。憲法は、国民ではなく、統治する側が守らなければならないとなっている。近代的憲法としては当たり前の考え方です。
しかし、「統治形態の基本を定めたものであり、国民の権利と自由を守るために定められた」と言うと、政治的には間違ったことになってしまう。
実際の憲法はどうやって作られたのか。権力を掌握した側が今までのやり方では統治できなくて、新しい決まりを作るというのが憲法制定の在り方です。憲法は、革命やクーデターにより権力を掌握した新勢力が、新国家の統治形態を定めたものです。
有名な芦部伸喜さんは、東大や学習院大で教えていた憲法学者であり、現代の憲法学の通説的なものを築いたと評価されている人ですが、宮沢俊義が唱えた「8月革命説」を継承しています。日本国憲法は明治憲法、大日本帝国憲法の改正手続きで作られています。最初に天皇の「御名御璽」があります。国民主権の憲法を天皇が交付するという矛盾があるのです。芦部さんは「ポツダム宣言を受諾した段階で、明示憲法の天皇主権は否定されるとともに国民主権が成立し、日本の政治体制の根本原理となったと解される。ポツダム宣言の受諾によって法的に一種の革命があったとみる」と説明しています。1945年8月14日ポツダム宣言受諾決定、8月15日「玉音放送」。そこで革命があった。天皇主権を認めていた大日本帝国憲法の改定として天皇が交付する形をとっているわけです。国の仕組みが変わったときに憲法が変わる、そういうことです。
(2)現行憲法制定の背景
現行憲法が制定される時はどんな状態だったのでしょうか。年表的に書いてみました。
日本国憲法の施行は1947年5月3日です。それまでにどんなことがあったのか。
1945年8月28日にGHQが上陸して横浜に本部が設置される。10月には治安維持法で検挙されていた人たちが一挙に出てきて、共産党が再建される。9~10月にかけてさまざまな大規模デモが起きる。10月25日には憲法問題調査委員会が設置。12月15日には議員選挙法が改正される。この時には女性参政権が付与され、同時に、沖縄県民の選挙権は停止され、朝鮮半島の人たちは国民扱いされていたわけですが、選挙権は剥奪されます。沖縄県民、旧植民地の人々を排除した国会で憲法が論議されたことは注目すべきです。
1946年1月1日に「人間宣言」。1月19日に東京裁判条例が発出。東京裁判をどういう構成で行うのかが決まった。そして、3月6日に政府が憲法改正草案要綱を発表。同日、天皇が憲法改正勅語を発出します。
その過程で、憲法に関してはいろいろなことがあります。2月1日に改正案が毎日新聞に『試案』として掲載されます。当時の松本委員長が作ったものですが、大日本帝国憲法を少しだけ手直しした内容だったので、GHQは驚くわけです。マッカーサーが2月3日に日本国憲法の3原則を発表する。①天皇は最上位②戦争放棄③封建制度の廃止。1番と3番は矛盾しますが、天皇制を維持することは大切な方針だった。これを元に2月4日に民政局内で条文化が始まり、2月10日には成案が作られ、2月13日に日本政府に渡されます。すさまじいスピードです。なぜか。2月26日に極東委員会が設置されて、天皇の戦争責任を問う動きがあった。国際情勢の中で、マッカーサー・GHQはそれより前に、「天皇を残し戦争責任を問わない、しかし日本は危険な状態ではない」という憲法を示さなければならなかったのです。GHQ案を基にしながらすり合わせが徹夜を含んで行われ、3月6日政府が憲法改正草案要綱を発表した。
女性が初めて参政権を得て、沖縄県民が選挙権を失う状態で、4月10日に総選挙が行われます。選ばれた議員たちが草案を議論し、1週間後の17日に憲法改正草案が発表されます。
(3)戦後革命期の中で強制された憲法であることの理解
この時期、日本は本当に騒然としている。戦争によって押し込められていたものが解き放たれた。読売争議をはじめさまざまな争議が敗戦直後から澎湃とまき起こった。共産党が再建され、労働組合がどんどんできる。旧植民地の人たちが民族解放運動を起こしていく。
1946年5月1日メーデーは皇居前に50万の人々が集まりました。2日後の5月3日に東京裁判が開廷。戦争責任について人々の関心は非常に高くなっている。食えない、どうしてくれるんだという怒り。新しい社会をどうやって作っていくか。5月19日の食糧メーデーは皇居前に25万人が集まりました。プラカード事件、「朕はたらふく食ってるぞ。汝人民 飢えて死ね」というプラカードが掲げられ、不敬罪に問われる。名誉棄損罪で有罪を受けるも大赦されてうやむやになるのです。人々が実力行使で権力と対峙する、しかも、これを皇居前でやっていることは意味があるわけです。天皇の戦争責任を問う、「天皇の名において」殺された人たちのことを胸に天皇を打ち倒そうと思った人たちもたくさんいたはずです。翌日にマッカーサーは「組織的な指導の下に行われつつある大衆的暴力と物理的な脅迫手段を認めない」と発言し、運動に恫喝を加えます。
「1947年5月3日に日本国憲法施行する」ことは先行して決められました。東京裁判開始から1周年で施行、半年前の11月3日に公布されるというスケジュールです。公布と施行の間の1947年2月1日、2・1ゼネストがGHQによって「日本の安定のため」と直前に止められた。46年から47年は闘いが非常に盛り上がり、戦争や軍隊を絶対に許さない人々の運動の地熱が燃え盛っていたということです。
日本国憲法というのは、こういう状況の中で制定されたのです。国家に対して、この憲法が
強制されたのには、いろんな側面があると思います。
第一に、
紹介したような「戦後革命期」の人々の運動がまずあります。1946年5月に実施した世論調査では、7割が「戦争放棄条項は必要」と答えた。戦争で身内が死に、戦争の大きな被害を受けている人がいるのです。その頃は、アジア人民にどれくらい大きな被害を与えたかを知らなかったかもしれないけれど、戦争から帰ってきた人たちは、身をもって体験してきたので、戦争放棄、軍隊を持たないことに賛成する意見は特に高かったのです。日本国憲法の中の9条の意味はとても積極的に国民に捉えられていたと思います。
1946年、吉田首相は国会答弁のなかで「9条は、自衛権の発動としての戦争もまた交戦権も放棄した」と述べています。同年、共産党の野坂参三が「侵略戦争は正しくないが、自国を守るための戦争は正しい。憲法草案のように戦争一般放棄という形ではなく、侵略戦争の放棄とすべきではないか」と質問したのに対し、吉田首相は「近年の戦争の多くは国家防衛権の名においておこなわれたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認むることが偶々戦争を誘発する所以であり、それ自身が有害」と答弁した。9条は国民にそのようなものとして迎えられていたのです。
第二に、
日本が2000万人と言われるアジア人民を殺して生活を奪ったことに対する責任、そこをどう表明させ、どうアジアに対して納得を求めるのかという問題がありました。何もしないで、天皇が戦争責任をとらないで、許されるわけがなかったのです。
第三に、
極東委員会での天皇の責任を問う立場と、天皇の責任を問わずに日本を利用していこうと考えたGHQの思惑、つまり国際社会の中のきわめて政治的な動きが入り乱れる、そのバランスの中で日本国憲法ができたのです。
それは人民が獲得したものでもありますが、やはり政治の産物です。天皇制が1条に掲げられ「国民の結集軸」としての象徴とされることによって戦後革命期の人民の運動を押さえつける、そして、一方で私有財産の保障を29条で明記する。ここに妥協の産物であることが如実に表れています。資本主義の支配を維持して、敗戦から革命への道を防ぐための方法として、この憲法があったということです。
(4)9条と天皇制ののっぴきならない関係
天皇の戦争責任
天皇制と沖縄、そして9条は密接な関係があります。古関彰一さんという憲法学者が岩波ブックレットで『憲法9条はなぜ制定されたか』を出されていますが、これを読むと、9条の「戦争放棄」が「金科玉条的に素晴らしい考え方がどこからかでて与えられた」とか、「日本国民が頑張ってそれを獲得した」とか言えないことがよくわかります。
端的にいえば、天皇の戦争責任についてどう考えるかということです。
極東委員会が設置されたのが2月21日。
東京裁判の開廷が5月3日。この間の4月17日に憲法改正草案が発表されている。つまり、草案は「天皇の戦争責任はどうするのか」という綱引きの中で作られた。特に古関さんが注目しているのは、3月6日改正草案草稿が発表された時、天皇が憲法制定の勅語を出していること。この勅語はあわただしく作られた形跡があり、普通勅語では使われない言葉が使われている。「基本的人権の尊重」というフレーズが入っている勅語を天皇が出したことを各国にもアピールすることで、天皇の戦争責任を免れさせる材料に使ったのではないかと古関さんは分析しています。
沖縄問題
もう一つは沖縄の問題です。沖縄は1951~1971年まで分離統治されていました。1947年6月、マッカーサーの「沖縄諸島はわれわれの天然の国境」という有名な言葉があります。47年から48年にかけて朝鮮半島で戦闘が起きている状況で、アメリカでは「日本に30万前後の軍隊を創設し、反共の防壁とする」という計画が立てられていました。
マッカーサーはこれには反対しました。当時、マッカーサーはフィリピンにいてアメリカ軍を指揮していました。フィリピン他アジアの人たちが、どれだけ日本の軍隊に蹂躙され、日本と日本軍を憎んでいるかを骨身にしみて知っていたのです。同時に、日本人民がどれだけ平和を求め、戦争がない状態を歓迎していたかも把握していました。そういう現実の中で「30万人の軍隊を本土に作らなくても沖縄がある」とマッカーサーは言うのです。沖縄を全島軍事化、基地化していくことによって本土には軍隊がなくても大丈夫だと言うわけです。マッカーサーは朝鮮戦争まではゴリゴリの本土非武装論者だったと言われています。
どうしてこんな考え方をマッカーサーが持つに至ったのかは、天皇からそういうメッセージがずっと出されていたからです。文書で残っているのは「天皇メッセージ」(1947年9月)ですが、日本国憲法の施行直後に米政府に対してGHQを通してメッセージを送っています。「アメリカが沖縄を始め琉球諸島を軍事占領し続けることを望む。日本に主権を残存させた形で、長期の(25年から50年以上)貸与という擬制した形で軍事占領することを望む」というもの。これは1970年半ばにアメリカで公開され、1979年に日本に知られるようになったことですが、こういうやり取りによって、天皇はマッカーサーやGHQに対して「沖縄を売り渡す」と伝えていたのです。それが前提にあってのマッカーサーの言葉です。日本の非武装、戦争放棄という9条の制定の背景にはそういうことがあったのです。
(5)安倍政権で「改憲」が追求されることの意味
憲法というのは統治の根本を決めるものです。今どうしても憲法を変えなくてはいけないという圧力があるとすれば、日本国憲法が制定された当時の統治形態では統治ができなくなり、このままではだめだから憲法を変えなくてはいけないということです。つまり、新たな国家への転換が必要になっているということだと思います。
新たな国家として何が想定されているか。これは「戦争する国」です。
全世界のGDP伸びの半分以上を占めるアジアの巨大な市場と生産拠点をめぐる戦争、中国の市場は大きいわけです。市場と生産拠点をどこが支配するかという争いです。資本を背景として国同士の争いが非常に激しくなっている。日本も参戦できなければ資本主義国家として生き残れないという状況があります。
その中で、戦争への動きが着々と進められています。2013年12月に特定秘密保護法の採決が、多くの人の反対を押し切って強行されました。2014年には集団的自衛権の行使を容認する閣議決定があり、2015年には安保法制の制定、2016年11月は刑事訴訟法の改悪で司法取引や密告・売り渡しの合法化、そして共謀罪が2017年6月に成立します。2016年11月は安保法制を前提にスーダン駆けつけ警護が行われました。同年12月には防衛費が5兆2千億円、4年間連続して増え続けている。改憲、天皇代替わり、オリンピックというスケジュール、「国家的行事」を結集軸にしながら、戦争する国へと全体を進めていく。天皇も変わる、憲法も変わる中で「全世界からオリンピックの選手団を新しい日本で迎える」と安倍は宣言しているわけです。
5 では改憲策動にどう立ち向かうか
(1)体制内での運動の限界
では、改憲策動に私たちはどのように立ち向かうかですが、一般的に想定されている運動には限界があると思います。
①議会制民主主義の限界
まず、国会の中で議論をしていけばいいという考え方があります。憲法自身が議会制民主主義という建前を取っていますが、議員は免責特権があり「日本国民の代表」とされています。つまり、憲法上、議員は私たち人民の代表ではなく、一人ひとりの選んだ選挙民に対して責任を取ることは求められていないのが憲法上の仕組みです。議会制民主主義という建前自体が、私たちの意思を直接に反映するものでないこと、さらに言えば、小選挙区制によって、市民の意思を全く反映しない選挙。到底、その中で議会制民主主義に期待することはできません。
②立憲主義の限界
では「立憲主義」で闘えばよいのでしょうか。
「立憲主義」とは、憲法に基づいて政治をしなくてはいけない、憲法は権力を縛るものという考え方です。これは安保法制に対する反対論の時には、クーデター的に変えてはいけないということを言う場合には意味があったかもしれません。しかし今は憲法そのものが変えられようとしているわけです。「現実を憲法に合わせることが必要」と転倒した議論が公然と語られています。「加憲」とはそういうことです。自衛隊があるという本来は説明がつかない事態を、憲法を変えることによって現実に合わせようとしているのです。すると立憲主義を言っても意味がなくなってしまう。
日本弁護士連合会という日本の弁護士が全員入っている団体があります。今年5月に総会があり、安倍の改憲案に反対の決議を上げるということでしたが、中身は「反対」を表明するものではありませんでした。「今の憲法の課題と問題点について議論を深め、国民に議論を提供するという使命を充分に果たさなければならない」となっていて、弁護士会ができるのは情報提供して国民に間違った判断をさせないようにするのが使命となっているわけです。私たちは「それはおかしいだろう。憲法の中身を守るのが日弁連のするべきことではないのか」と反対しました。「安保法制の時に反対と言っていたんだから今回だって言えるはずだろう」という意見も出ました。執行部の答えは「安保法制は立憲主義違反、立憲主義についてはその正当性について誰も争えないから日弁連としての見解を示すことができた。しかし、改憲についてはいろいろな考え方があって弁護士会は強制加入団体だからそこまでのことは言えない」と答弁していました。立憲主義というのは改憲に対しては現実的に無力です。
他方で、「立憲主義の根本を変えるような憲法改正は許されない」という言い方もありますが、「立憲主義」は闘いの旗印にはなりえません。
③国民投票の限界
「発議された後、国民投票で闘えば勝てるだろう。国民はそんなに愚かじゃない」という意見もあります。確かに私も9条は国民に広く支持されていると思っています。しかし国民投票法は非常に偏ったことを許している法律です。甘く見てはいけない。発議を許さないという運動をしていかないといけないと思います。
改憲手続法に関しては、時間もないので端折りますが、投票日の2週間前までは制限がなく、賛成・反対の運動が宣伝も広告もできることになっています。時期や媒体によって異なりますが、新聞の全面広告を出すのには1千万円くらい、TV全国ネットのスポット広告は週末の日中で400万~500万円かかるという話があります。大手企業が新製品を発表する時は2週間キャンペーンで5億円くらい準備するそうです。有料意見広告については野放しで、「私は賛成しています」「私は反対しています」は投票当日までできることになっています。有名人やアイドルを使って意見広告を出すことは投票の直前までできる。限られた広告枠を誰がとるかということになります。
どうみても権力である改憲派が圧倒的に有利です。発議をいつするのか、運動期間をどのくらいにするかは、改憲をリードする側が決められるのです。広告枠は3か月前から抑えるので、事前に情報がある側が先行的に資金を投入すれば、反対論は入る余地がない。自民党は2016年の政党交付金が約160億円くらい、企業献金の9割は自民党にいくと言われています。神社本庁や日本会議という大きな支持団体があるので、「改憲」というテーマで数百億を集めるのは容易です。そして電通は日本最大の寡占的広告代理店で、広告枠を優先的に購入できる。初動の段階で「自民党改憲案に賛成」という意見を出し続けることも可能です。
また、安倍が突然「放送法4条を撤廃する」と言い出した。「公平性を確保する」というのが4条ですが、ネット上にあるいろんな番組枠を抑えてニュースを流していく。東京MXテレビなどもそれに近いことを既にやっているわけですが、金で憲法を買おうということです。
もう一つは事前運動規制です。教員については事前運動が禁止されています。非常に抑制的になるでしょうから、例えば学校や大学で学生たちがどういう形で憲法改正について考えていくのかきちんとした判断ができないことになるんじゃないかと思います。また、公務員の運動も規制されます。もっとも改憲に反対する勢力、戦争する際に邪魔になる勢力に改憲反対運動を行わせないようにする。
(2)一般的な「護憲」運動の基盤と限界
これまでの「護憲」運動には限界がありました。
私たちの中に、9条は変えてはならない、戦争放棄が日本国憲法の肝である、という意識があることは大事です。
1956年参議院選挙の時には、護憲か改憲かが最大の争点になったと言われています。この頃から護憲派、改憲派という言い方ができました。労働組合における学習や学校教育、平和教育を通じて9条は内実を持ち、私たちの中に定着してきました。生活の中で9条を考える、平和的生存権とは何なのかを深めていくことが行われてきました。安保・基地反対という運動の中で、ベトナム反戦で、軍拡反対の運動の中で、9条が深められた。9条があったから平和だということでなく、9条をもとにしながら民衆の運動があったからこそ9条が大切だという意識ができているのです。
しかし他方で、「護憲」運動は、9条を大切だというばかりで、昭和天皇の戦争責任免除や沖縄の基地化の中で9条ができたことに関しては十分認識してこない面がありました。また、アジアの人たちが1945年以降、どのような「戦後」を送ったのか、朝鮮半島の状況を考えてください。日本が朝鮮半島を占領し、国と言葉を奪ったことによって、朝鮮戦争で米ソがぶんどりあいを行い、同じ民族が殺しあい、家族が分断される状態がおきた。光州蜂起など数々の闘いで人民が虐殺されてきたことについては、日本に大きな責任の一端があります。未だに「戦後」を迎えられない状況に朝鮮半島はあるわけです。沖縄を最前線基地としてベトナム戦争がありました。それなのに「9条があったから戦後の平和が護られた」という論はやはりあまりにも能天気であると私は思います。「9条は誇るべきものだから平和賞を」という運動もあり、運動をやっている方たちは善意なのでしょうが、そこには憲法というのは何なのかを捉えること、国際状況の中で自分たちを見るという観点が欠けていると思うのです。
(3)戦争反対を根っこに置いた運動
私たちは「憲法」という作られたものを根拠にするというよりも戦争反対を根っこにおいた改憲反対運動をしなければならないと思います。国の仕組みを変えようとして改憲が叫ばれているのですから、私たちもそれに「どのような国家をめざすのか」を対置させなければなりません。
「戦争反対」という時に力を持つのは労働組合です。戦争するのは戦争を担う人がいないとできないわけで、一つひとつの労働が戦争に結びつけられて初めて、戦争は可能になります。
そして、一人ひとりの労働者が闘うのは大変かもしれないけれど、労働組合が戦争を許さないと立ち上がった時には、戦争に対する大きな運動になる。それがわかっているからこそ1987年国鉄分割・民営化をする時に「国労をつぶし、総評=社会党ブロックを解体し、もって立派な憲法を床の間に飾る」と中曽根首相は意図したわけです。組合をつぶすことで戦争に反対する人たちをなくし、改憲・戦争という流れをつくることが、権力者にはよくよくわかっているのです。
労働組合は、労働に近いところにあることで、自分たちの労働がどう戦争に結びつくのかを一つひとつ具体的に明らかにしていくことができます。労働組合を軸にした運動で、戦争を起こさない、戦争を許さないことができていくと思います。
もう一つ、国際連帯もとても大切です。戦争を起こす前提には必ず「排外主義」があります。「排外主義」がかきたてられ利用されます。人々の思いを自身の国家に集め、不満を外国や異質なものに向けさせるのが排外主義です。そういうものの気配を察知し、これを許さないことが国際連帯につながっていきます。「戦争は故郷を守るものだ」と言われる日が近いうちにくるかもしれません。それが欺瞞であることに気づけるように、具体的な国際連帯を進めてきましょう。
改憲を阻止する運動の中で、豊かで実り多い運動を、私たちのめざす社会を、どう形にしていくのか、大いに議論しながら、この秋を迎えたいと思います。
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【現行憲法制定の背景】
1945年
8月14日 ポツダム宣言受諾決定8月15日 ラジオ放送
8月28日 GHQ設置
10月 共産党再建
10月25日 憲法問題調査委員会設置
12月15日 議員選挙法改正案(女性参政権、沖縄県民選挙権停止)
1946年
1月1日 「人間宣言」
1月19日 東京裁判条例発出
1月24日 幣原(しではら)マッカーサー面談
2月1日 改正案スクープ『試案』として掲載
2月3日 3原則
①天皇は最上位
②戦争放棄
③封建制度の廃止
2月4日 民政局内で条文化
2月10日 成案
2月13日 日本政府に手交
2月26日 極東委員会設置
3月6日 政府憲法改正草案要綱発表、天皇憲法改正勅語発出
ここまで急ピッチ(徹夜で協議)
4月10日 衆議院議員総選挙
4月17日 憲法改正草案発表
5月1日 メーデー 皇居前に50万人
5月3日 東京裁判開廷
5月19日 食糧メーデー 皇居前に25万人
プラカード事件
5月20日 マッカーサー「組織的な指導の下に行われつつある大衆的暴力と物理的な脅迫手段を認めない」
6月20日 憲法改正案提出
11月3日 日本国憲法公布
1947年
2月1日 2・1ゼネスト GHQ「日本の安定のため」禁止
5月3日 日本国憲法施行(東京裁判1周年)