関生支部の闘いとユニオン運動 第4回

暴力・弾圧に屈しない――「嘆くな。組織せよ!」

組合結成から1970年代にかけて関西生コン支部は、経営者による職場の暴力支配と暴力的攻撃に直面しました。生コン業界は新規の参入が容易なため暴力団が経営に乗りだしたり、また経営者が暴力団を頼ったりしているのが実態でした。職場では組合員への暴力や脅迫が絶えません。これらに支部は職場で一つひとつ反撃し、また組合員を動員し、大衆行動ではねのける行動を取りました。
1973年、大進運輸での組合員解雇に対する闘争が典型的な例でした。この大進闘争では、組合員動員による波状攻撃を四波にわたって工場にかけました。
74年の1月5日には200人の組合の部隊で工場に乗り込むと、大日本菊水会の右翼が襲いかかり、殴る、蹴るで14人が負傷しました。支部は親会社の大阪セメントに抗議、謝罪と解雇撤回を勝ち取りました。この闘争で、組合員を集中動員して波状的に抗議行動を展開するという、今日までつづく基本戦術を確立しました。
しかし、業界の暴力的な体質は改まりません。それどころかいっそう凶暴になりました。
1974年、全自運大阪合同支部の片岡運輸分会の植月一則副分会長が、暴力団によって刺殺されました。時期は後になりますが、1982年には支部高田建設分会・野村雅明書記長が拉致され、リンチにより殺害されました。
そして1979年、当時の関西生コン支部の武建一書記長の監禁・殺人未遂事件が起きたのです。山口組系暴力団入江組が、武書記長を一昼夜にわたって監禁し、昭和レミコン分会の解散などを要求し、殴る蹴るの暴力と「殺してやる」との脅迫を加えました。六甲山の山中に埋められる直前、実行犯のヤクザが同郷の徳之島出身と知り、解放され、一命を取りとめたのです。
この弾圧と暴力的な攻撃を、支部の成長過程からとらえる必要があります。支部結成からの困難な闘いと、73年の集団交渉の実現、そして82年までの飛躍、この過程のなかで、1970年代をとおして、組織は前進を続けました。これに対して「なんとかして食い止めたい」という経営側の焦りが、暴力となって現れたのです。
支部がこの時期に、暴力に決して屈服しないとの姿勢を確立したことはとても重要です。資本と賃労働の敵対的な関係で、資本は懐柔や脅し、労使協調の誘いをかけてくるのは当然のことです。闘わない弱い組合なら放っておくでしょう。しかし闘う組合に対して経営側に残された道は、組合を対等な関係として認め交渉していくか、あるいは暴力的に殲滅するか、この2つしかありません。後者の手段をとった経営者に屈してはならない、暴力にたじろいではならないのです。
しかもここで大切なのは、経営側の暴力に対して支部は大衆行動=〝動員〟で対抗したことです。暴力には暴力で反撃しない。しかし屈しない。そのため支部は、総力をあげて組合員を結集し、抗議する戦術で対抗したのです。
当時、全自運大阪地本は、暴力攻撃に対して裁判所や労働委員会に依存する傾向にありましたが、それとは対照的です。暴力には大衆行動で反撃し、社会問題化し、世論を味方につけ、暴力企業を社会的に包囲する。この闘い方こそが必要だったのです。
組合員もその行動に参加し、体験する中で鍛え上げられていったと思います。また、前線に立つ幹部が、身体を張ってでも闘うとの姿勢を示したことは、支部統一指導部の信頼を高めたに違いありません。〝暴力団よりも強いらしい〟との噂は、実感をもって広がったのでしょう。
暴力に暴力では対抗しない。しかし決して屈しない。その姿勢がわかる写真を紹介しておきます(右下参照)。
昨年、関生支援の「東京の会」準備会でも紹介したIWW(世界産業労働組合―シカゴに本部を置く米国最初の産業労働者組合連合体)の写真ですが、もう少し接近したものです。州兵の銃剣が胸元に迫っています。労働者は微動だにしません。ただ腕組みをしたままで立ち続ける。それで勝利したのです。今もアメリカ労働運動の歴史に残る「腕組みをしたままのストライキ」です。子供や女性を奴隷のようにこき使う繊維産業での争議です。そのために、多くのIWWの組合員がかけつけたのです。
以上見てきたように、関西生コン支部への弾圧は、支部の組織化の前進をなんとか押さえ込みたいとの意図からくるものでした。それは必然でもあります。産業別組合は、企業別組合と違って、産業別に労働条件を決めるので、その産業の労働者を組織し続けなければなりません。組織化が宿命づけられているのです。だから、この組織化が進めば進むほど、経営者や権力との衝突は、避けられないともいえるのです。それは世界の戦闘的労働組合が乗りこえてきた闘いでもありました。これもアメリカ労働運動の歴史に残る話です。
IWWのオルガナイザーのジョー・ヒルはシンガー・ソングライターでもあり、日本でも「牧師と奴隷」など彼の作品はいまも歌われています。1914年1月、彼はユタ州で殺人事件の容疑で逮捕されました。そして、「でっち上げ」によって死刑が宣告されたのです。死刑執行の前夜、ジョーはIWWの指導者ビル・ヘイウッドに、アメリカ労働運動史上もっとも有名な文章を
打電します。「さよなら、ビル。ぼくはきっすいの反逆者として死に臨む。ぼくの死を嘆いて時間を無駄にするな。組織せよ」。この「嘆くな、組織せよ!(ドント・モーン・オルガナイズ)」は、その後のアメリカ労働運動の標語になったのです。2016年、アメリカ大統領選挙でトランプが当選した時、ある労働運動誌の評論の小見出しが「嘆くな、組織せよ!」でした。
関西生コン支部も、暴力と弾圧をはねのけながら、「嘆くな、組織せよ!」の道を快進撃していくのです。

木下武男(労働社会学者・元昭和女子大学教授) 『月刊労働運動』7月号掲載