関生支部の闘いとユニオン運動 第5回

「第一次高揚期」における組織の飛躍――「箱根の山を越えて」

関西生コン支部は、経営側の暴力的攻撃や弾圧を、組合員参加による産業別統一闘争ではねのけて前進します。支部結成から一九七二年までの困難な時期を乗りこえ、その後、七三年の集団交渉の実現から八二年まで支部は快進撃をつづけます。この時期を「第一次高揚期」と呼べるでしょう。
その飛躍は組合員の増加から確認できます。組合史『風雨去来人馬』から当時の組合員数をひろってつくったのが図のグラフです。一九七九年の一一三五人から八二年の三二八八人まで急角度に組織が拡大しています。高揚期であることをはっきりみることができます。この急上昇の曲線の先に、関西生コン支部のみらず、日本の労働運動の新しい未来がみえるかのようです。

さて、そこで、組合員数の飛躍の意味を三つの面から見ておきましょう。
まず第一は、「面」の広がり、つまり大阪、兵庫を基盤にしていた関西生コン支部がこの拡大期をつうじて地域的に影響力をましたことです。京都、和歌山、奈良、滋賀そして福井へと広がっていきました。
その組織化は、組合員を一人ひとり増やしていくという方式ではなく、個別争議を闘い抜き、それを足がかりに広げていくやり方でした。すでに確立した基本戦術つまり大衆行動による産業別闘争にもとづいて、支部あげて争議に取り組みました。例えば、一九七六年の福井県でのある争議には、バス九台、四五〇人の組合員を結集させました。その年の支部の組合員数が八四〇名だったので、そのすさまじさがわかります。
その戦術の基礎にあるのは、一人の組合員の人権への侵害も、一つの分会の団結権の破壊も決して許さない、産別組織あげて守り抜くという思想です。その姿勢に支部の権威は高まり、労働者は共鳴し、組織も広がっていったのだと思います。

第二は、組織拡大が他業種へと、いわば何本もの「線」の形で広がっていったことです。業種別ユニオンを「線」にたとえると、関生支部は多くの「線」を束ねる存在になっていきました。
一九八一年(二四一〇名)には業種別には、①セメント・生コン( 一三九三名)、② バス・タクシー(二五二名)、③バラS S( 一八六名)、④ 原発(一八三)、⑤骨材・ダンプ(一五八名)、⑥トラック・倉庫(九一名)、⑦ポンプ・圧送(一五名)などでした。さらに一年後の八二年には、骨材・ダンプが三三五名、圧送・ポンプが九五名に飛躍的に伸びています。
このような業種別に分会が増え、組織が拡大していることは大きな意味をもっていました。当時、全自運は運輸一般に名称を変え、一般労働組合を目指しました。すでに紹介しましたが、業種別部会もつくられていました。ところがその部会の内実は、関西生コン支部のような産業別闘争を展開する統一指導部をもつ段階にはいたっていなかったとみてよいでしょう。その段階で、関西生コン支部が業種別に組織を広げていくことは、その業界に一つひとつ小さな産業別組合をつくっていくことに等しいのです。つまり関西生コン支部が、業種別組織から、それらを包含する一般労働組合に成長する可能性があったということになります。関生支部それ自体が、一般組合の性格をもちつつあったのです。

第三は、組織拡大が産業別闘争と政策闘争の質的強化をもたらしたことです。産業別闘争は、集団交渉の実現とその高い水準での妥結をもとめる運動であり、政策闘争は業界の構造を改革する運動です。この関生方式の根幹をなす運動は、集団的労使関係の形成いかんによります。つまり企業内の労使関係ではなく、それぞれの企業を業界に結集させ、集団交渉に参加し、その結果に従わせるようにしなければなりません。
この集団的労使関係の支える基盤こそが、個別企業における組織化なのです。「第一次高揚期」に大阪兵庫工業組合の半数に分会が確立しました。地区別にみると北大阪八二%、大阪と神戸、北神で五〇%を超えていました。この組織化が、つねにブレる中小企業の経営者を、集団交渉に向かわせる力になったのです。

さて、いよいよ関生支部が「箱根の山」を越えるところに話を進めましょう。そこでまず、神奈川県横浜の鶴菱運輸の争議を紹介しなければなりません。それは、鶴菱運輸が三菱鉱業セメントの五〇%出資の生コン企業であり、そして、この争議のさいに、「関生型運動に箱根の山を越えさせるな」と発言した大槻文平(当時、日経連会長)は、三菱鉱業セメントの会長だったからです。すでに小野田セメントは、一九七七年に東海運の争議で関生支部に屈服させられていました。つぎが「三菱」だったのです。大槻は「箱根の山」を越えたこの争議で手痛い打撃を受けたのです。
争議の詳細は述べませんが、支部は、東京での三菱本社への抗議行動への動員や、関東の生コンの未組織企業への集中オルグ団の派遣などを行いました。さらに関西では、三菱セメント関係の生コン企業の製品不買運動や、同セメントの出荷のサービス・ステーション(SS)におけるピケットをはったストライキなどを敢行しました。この争議は運輸一般の「全国セメント生コン部会」による全国支援のもとで取り組まれ、そのなかで、関生支部の取り組みが全国から注目されました。次回お話ししますが、鶴菱闘争を契機にして、関生方式が「箱根の山」を越え、関東に広がり、やがて全国化する見通しが開けたのです。

木下武男(労働社会学者・元昭和女子大学教授) 「月刊労働運動」2020 年8月号掲載

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