戦後労働運動史の中から 第18回 1954年日鋼室蘭争議(1)

2019年7月31日

月刊『労働運動』34頁(0297号07/01)(2014/12/01)

戦後労働運動史の中から 第18回 1954年日鋼室蘭争議(1)

戦後労働運動史の中から 第18回
1954年日鋼室蘭争議(1)
 尼崎製鋼争議がまだ終結しない1954年6月17日、日本製鋼所室蘭製作所で900人の人員整理案が出されました。全従業員の4分の1に当る人数です。
 日鋼室蘭は1907年創立の日本有数の軍需工場、戦艦武蔵・大和の備砲製作で有名です。1917年に大争議がありますが、その後は運動が絶え、戦後作られた組合も穏和で、49年、同じ日本製鋼所の広島工場の大量首切り反対争議でも少しも動かなかった程です。従業員はほとんど地元出身で地縁意識が労資協調と重なっていたのです。会社も室蘭工場を大事にして、それまで目立った人員整理がありません。
 ところが54年の不況は会社を追い詰め、とうとう室蘭も人員整理の対象になったのです。このときは広島工場などはさっさと会社提案を呑むが、室蘭は首切り人数も多く、そうはいかなかった。しかし、組合指導部は闘争に自信がなく、上部団体の鉄鋼労連など周囲もこの組合が戦えるとは思っていません。そうこうするうち指名解雇発表の日が近づいてきます。
 この頃、指導部の姿勢に焦慮を深めていたのが青年労働者の有志です。青年行動隊を作りはじめた彼らを勇気づけ、闘争に火をつけたのは、日本炭鉱労働組合(炭労)傘下、北海道の三井系炭鉱の組合からのオルグでした。これらの炭鉱では前年、三池炭鉱とともに113日の戦いの末、指名解雇を跳ね返したばかりです。「戦えば勝てる。去るも地獄、残るも地獄。戦うしかないのだ」。この励ましと闘争方法の伝授を受けて、青年たちは勇躍します。炭鉱争議の一つの華、炭婦協(日本炭鉱主婦協議会)のオルグも来て、居住ぐるみの戦いを教えます。日鋼室蘭の主婦たちがこれに応える。この工場では従業員のほとんどが社宅に住み、社宅街の様子は炭鉱と似ていたのです。以後、青年たち、同じ室蘭の富士製鉄(現新日鉄)の組合や炭労・地区労などの支援共闘とともに、主婦会は争議の主要な担い手になりました。
 7月8日、会社は指名解雇者に通告状を発送、そのほとんどを青年行動隊が回収して突き返し、解雇者を包んで全員で入場します。会社はロック・アウトを宣言するが、強行就労を続けました。この間、支援共闘も大量動員、8月18日には8千人が室蘭市内をデモします。
 しかしこの頃、職員層や組合の元幹部ら、戦術転換を要求する一派が動き出し、組合分裂への相談が始まっていました。
 8月24日、会社は解雇者数を若干減らした最終案を提示、組合指導部も鉄鋼労連も、この辺が力の限度だと、受諾方針をとります。ところがこの執行部提案は25日、中央委員会で否決されたのです。この中央委員会は、組合員や主婦多数が傍聴につめかけ、会議場を戸外に移して公開で開かれました。受諾意見は傍聴者の怒声でかき消され、採択の無記名投票が起立採決に切りかえられて、結局圧倒的大差で受諾拒否が決まったのでした。
 (次回に続く)

伊藤 晃 日本近代史研究者
1941年北海道生まれ。『無産政党と労働運動』(社会評論社)『転向と天皇制』(勁草書房)『日本労働組合評議会の歴史』(社会評論社)など著書多数。国鉄闘争全国運動呼びかけ人