ひめじょおん―女性部から私たちは歴史的存在だ

2019年7月31日

月刊『労働運動』34頁(0349号15/01)(2019/04/01)

ひめじょおん―女性部から
私たちは歴史的存在だ

私たちは歴史的存在だ

 全国労組交流センター総会と30周年レセプションで、田中康宏代表から「国鉄分割・民営化に始まる新自由主義攻撃の中でよくぞここまで生き残った」と言われ、新自由主義による社会崩壊の中で、絶対反対の旗を掲げて階級的労働運動の力を真に発揮する時だと思えてきた。女性部もがんばっていこうと決意している。
 先日の全国女性部の運営委員会で、「共同保育」の経験の継承の話が出た。働きながら闘う女性にとって「共同保育」は絶対に必要だ。「共同保育」といってもいろいろあるが、私は85年に子どもが生まれ、その後、子どもを抱える3人の女性たちと「共同保育」をやってきた。その子どもたちも大人になっている。
 3・3国際婦人デー集会の時、子どもが走り回っていた。女性が子どもを連れて集会に参加する姿は力強い。子育て中の女性たちに女性部に結集してもらい、女性部の若返りをと思っている。

私の闘いの原点

 私の闘いの原点は、三重県四日市市の東洋紡績富田工場から始まる。
 新潟で中学を卒業し、集団就職ではないが同じ中学校から2人、募集の人に連れられて四日市に行った。全員が寄宿舎生活だ。中卒でも通信制の高校に行けるというのが謳い文句だった。家が貧しく高校に行けなかった。そんなことより「女の子に教育はいらない」というのが一般的考えだった。朝ドラ「ひよっこ」に出てくる光景と同じだ。先輩がいて新入社員5~6人が十何畳の畳の部屋で枕を並べて寝る。押入れ半畳の上下が自分のスペースだった。
 でも全然辛くなかった。働いてお金をもらえるのがうれしかった。私は「母のように姑にいじめられ、田んぼに這いつくようにして働く生き方はいやだ!強く生きたい」と思っていた。戦後、田舎の女性たちの生き方を反面教師に、自立した女性として生きることへの強烈な思いは、四日市公害と闘う沢井余志郎が戦後紡績工場の女性たちとやった「つづり方運動、生活記録運動」の中に残っている。
 当時、山本茂美著『ああ野麦峠 ある製糸工女哀史』を読んだ。明治初期、輸出の大半は生糸関係で占められていた。文明開化や鹿鳴館の華やかさは、女工さんたちの犠牲の上に成り立っていた。しかし日清・日露戦争に至る驚くべき経済力は「素ワラジで雪の峠を越えてきた女たちの口減らしの働き」や「一年働いてたった上履き一足の報酬」の集積によって生まれた<生糸の経済力>だと著者は語っている。私たちは本当に歴史的な存在だ。女工さんたちの闘いを引き継いで闘う歴史的存在としての女性部だ。
 長い間、定年になり機会があったら私が働いた紡績工場跡地に行ってみようと思っていた。昨年11月、関西に行った折に寄り道したが、イオンの巨大なショッピングモールになっていた。レンガつくりの原綿倉庫が、大正期の貴重な建造物として登録有形文化財に指定されていた。最寄駅のJR富田駅は無人駅になっていた。