関生支部の闘いとユニオン運動 第二回

苦難の闘いで見えた真の「敵」

「関西生コン」運動の試練の時期

一九七〇年代初めの一般労働組合運動の最先頭に、武建一委員長が立ったのは、もちろんそれにふさわしい闘争経験があったからです。この連載はこれからしばらくは、関西生コン支部の苦しい試練の時期から大飛躍の時期、そして「一九八二年分裂」によってこれまでの関生運動が破局を迎えるまで、歴史的に振り返ることにします。
この八二年までの時期にこそ、産業別闘争を勝ち抜く「関西生コン」運動のすべてが凝縮されています。そしてその経験は「関生」だけでなく、日本の労働運動にとっても貴重な闘いでした。企業別組合が支配的な日本の労働運動のなかで、産業別組合を移植し、発展させる「勝利の方程式」、「勝ちパターン」を、関生支部はみずからの苦難の闘いを経てつかみ取ったのです。このようにすれば日本でもできる、労働運動に示した意味は限りなく大きいと思います。産業別組合を定着させる勝ち筋の「定石」は四つありますが、それぞれ詳しくは別途に説明します。ここでは歴史のなかでふれていくことにします。
次頁に示したのは一九八二年の古い論文で、書いたのは武建一委員長です。掲載した雑誌『賃金と社会保障』の表題は「関西生コン労働組合運動の歴史と到達点」、副題は「業種別支部型労働組合運動が切り開いたもの」とあります。当時の生コン会館の写真ものっています。八二年八月上旬号ですので、まさしく共産党の排除・分裂攻撃の直前の文献です。
この論文の出だしで、「今年、四〇歳ですが、生コン関係に携わってから二一年になります」と述べていますが、この「今年」の八二年こそが「二一年」闘ってきた「関生」運動の最大の到達点でした。歴史を振り返るにはこの論文を一つの参考にするのがふさわしいと思います。
この一九八二年までの時期を論文では「七年間の停滞」と「その後の前進」の二つに分けています。一九六五年の関西生コン支部の結成から七二年までの困難な時期と、その後、七三年春闘での集団交渉の実現まで躍進の時期です。

 

生コン産業の構造とセメント資本

「七年間の停滞」の時期は、武委員長をして「本当に勝てるかわからない」と思わせたぐらいの苦難の闘いの連続でした。一進一退の攻防です。しかしそのなかで、「関生」は①巨大な敵を認識したこと、②味方の陣営を、統一指導部をつくり、固めたこと、③背景資本を相手にした闘争を、④産業別統一闘争という形で追求したこと、これらをつかみ取った教訓は大きなものがありました。
生コン業界は戦後に生まれた産業です。また攪拌(かくはん)方式のミキサー車も開発されたのも一九五五年ですので、それを運転する「生コン労働者」という職種が登場するのもそれ以降のことです。その生コン運輸労働者は、入ったら抜けられない「たこ部屋」のような暴力的な労務管理のもとで昼夜なく働かされていました。それはセメント資本と生コン産業にとって輸送費の圧縮が利潤の源泉になっていたからです。
一九六〇年、いくつかの労働組合が結集して「大阪生コン輸送労組共闘会議」(生コン共闘)を立ち上げました。ここで注目しなければならないのは共闘会議の参加組合や組織化した組合の特質です。小野田セメントの下請企業の「東海運」、日本セメントの生コン部門である大阪アサノ生コン、その下請企業の「関扇運輸」、大阪セメントの直系の生コン工場、その輸送部の企業「三成佃」という具合です。
つまりセメント・メーカーの大資本があり、そのセメントの大きな需要先である生コン製造企業があり、その生コンを建設現場に運ぶ生コン運輸業者があるという構造ができていたのです。大手セメント資本―生コン製造企業―生コン運輸業者という一体的な業界構造が組合運動を規定することになります。
この業界構造のなかで、生まれて間もない生コン労組は、暴力的管理と過酷な労働を強いている当面の生コン業者に改善を求めました。それは目の前の「敵」だから当然のことでした。しかしこの産業構造のもとでは、それは串刺しのようにセメント大資本をも貫くことを意味したのです。だから中小企業を相手にしている運動であっても、背景にある大資本が強く抑圧する構造があったのだと思います。
その抑圧の攻撃は、生コン共闘会議の労働組合への「組合つぶし」と、また生コン車が大型車に変わる時期でもあり、「大量人員整理」としてなされました。その攻撃のなかで「幹部活動家」が多く辞めていきました。「頑張ってももう望みがない」。退職金の上乗せで「中堅といわれる幹部たちが辞めていきました」。こう述べる武委員長も、「勝てるかわからない」との苦悩を抱えていた時期でもあったのだと思います。
しかし、セメント大資本が真の「敵」だとの認識は関西生コン労組を鍛え上げていくことになります。生コン労組が出会った敵は、小兵のような中小企業ではなく、小さな企業の裏に控えている巨大な独占的大企業でした。強大な敵に遭遇してしまったのです。
ここのところが、さきに紹介した地域合同労組運動とは違っています。合同労組の基盤は、民間大企業の系列下請の企業というよりも、多くは地域の製造業やサービス業などの企業です。また民間大企業労組の運動をまねるわけにはいきません。
関西生コン労組は、民間大企業のなかで労使協調でいく民間大企業労組のやり方でもなく、また民間の中小企業を相手にする合同労組の方式でもない、異なった闘争戦略を立てなければなりませんでした。労働者の利益のために闘う限りは、産業別組合を目指さなければならない必然性がここにあったのです。

木下武男(元昭和女子大学教授)『月刊労働運動』5月号掲載