関生支部の闘いとユニオン運動  第1回 木下武男

武建一委員長と私の出会い

武委員長と私との出会いから連載を始めることにしましょう。
武さんが逮捕される二〇一八年の年始めのころでした。私は用事があって大阪の労働会館に行きました。隣の建物に関生支部の事務所があります。用事がすむと、武委員長が木下さんが来るんだったら話をしたいと言っているとのことでした。女子大学で教授をやっていた私と、関生の歴戦の武委員長とはどうみてもミスマッチであり、私は率直な話ができるのか緊張しました。
だけど武委員長はフランクな方で、本当に打ち解けて二時間半あまり延々と話ができました。
それには深いわけがあったのです。それは関西生コン支部の出生の「秘密」でもあります。そして武さんと私は実践家と研究者と立場は違いますが、一九七〇年代の労働運動の世界で、同じ空気を吸っていた、その時代とも関わります。

この二人の間に介在する人物がいました。法政大学社会学部の教授の中林賢二郎さんです。学者だったので武さんはあまり意識していなかったようですが、日本に一般労働組合(ジェネラル・ユニオン)を紹介し、根づかそうと大きな努力をされた方です。
中林さんは戦後直後、東京大学で学生運動を活発にやられたようで、その後、いろいろな問題をへて、結局はプラハの世界労連事務局の仕事をされました。世界労連は国際組織として戦後直後は一本化されていましたが、その後分裂し、国際自由労連ができました。重要なのは世界労連にはフランスのCGTや、イタリアのCGILといった共産党系のナショナル・センターが加盟していたことです。
これらのナショナル・センターは産業別労働組合の全国組織の結集体であり、世界標準の「本当の労働組合」だったのです。明朗な性格の中林さんは、おそらく彼らと活発に議論をし、貪欲に経験を吸収したに違いありません。そして世界標準の労働組合論を身につけ帰国し、研究者となり、一九七一年に法政大学社会学部教授の職に就きました。私はその同じ年に、社会学部の大学院に入ったのです。指導教授は違っていましたが、中林ゼミの一員として労働組合論を学びました。当時、ゼミでは「レーニンの労働組合論」をテーマにしていました。私は『一歩前進、二歩後退』を担当させられ、明け方まで準備したことを覚えています。

少し脇道に入ったようですが、ここからです。中林さんの関心事は、アカデミックな研究ではなく、プラハで獲得した「本当の労働組合」のあり方を日本にどのように移植するのか、そのことにあったのは当然でした。そこから当時、イギリス労働運動の左派の潮流の中心であった運輸一般労働組合(TGWU)の組織と機能を旺盛に紹介していくことになります。
運輸一般は当時すでに一〇〇万人の巨大組合に成長していました。他の研究者と協力して翻訳もされました。また実践的にも労働組合と密接に関わっていたようです。
労働組合運動の場面でも新しいうねりが起きてきます。それは未組織労働者の組織化の戦後における第二の波と言っていいでしょう。
第一の波は合同労組運動です。一九五五年の総評第六回定期大会は未組織労働者の組織化の取り組みを本格的に提起しました。組織化の対象は、「全国単産のそそり立つ連峰の間の広く深い谷間に働く労働者――それは中小企業に働く労働者」(沼田稲次郎)と表現されるように中小企業労働者でした。合同労組方式はその労働者を地域を基礎に企業を超えて個人加盟で組織するやり方でした。
しかし合同労組運動は、企業別組合の連合体である単産の体質には手を加えることなく、組織化の課題をナショナル・センターに預け、しかも組織化のためのオルグ集団に請け負わせる形になっていました。結局、一九六〇年以降の民間大企業労組の右傾化と大幅賃上げの時代の到来とともに、企業横断的組織化運動は後退していきます。
そして第二の波。それが一般労働組合運動だったのです。一九七三年に建設一般、七八年に化学一般、同年に運輸一般がそれぞれ結成されました。ゼンセン同盟も繊維産業からスーパーマーケット業界へと進出し、この時期、一般組合方式の組織化に本格的に取り組み出します。
これら一般組合の特徴は、合同労組が地域の中小企業の労働者一般を基盤にしていたのに対して、産業・業種を明確にしていたことです。しかも大きな枠の産業ではなく、より狭い業種・職種ごとに業種部会をもうけていました。
運輸一般(全日本運輸一般労働組合)は「定期路線部会」や「地場トラック部会」、「清掃部会」、「セメント部会」など一〇ほどの部会をつくっていました。
そして、この業種別部会の運動を、大阪の地で典型的に展開していたのが若き武建一だったのです。

木下武男(労働社会学者・元昭和女子大学教授) 『月刊労働運動』4月号掲載