関生支部の闘いとユニオン運動 第6回
関東における生コン労働者の闘い―「関生型労働運動」を迎え入れる生コン労組
日経連会長の大槻文平(三菱鉱業セメント会長)は、「箱根の山を越えさせない」と、関生運動の防衛線を「箱根の山」にしたのですが、それは突破されました。しかも、その関生型運動を迎え入れる関東の生コン労組も成長しつつあったのです。
過酷な労働と関西生コン支部へ注目
ここに、飯坂光雄『たたかいの記録―関東の生コン労働運動40年』(発行 全日本建設運輸労働組合、二〇〇四年)という冊子があります。彼は、東京で関生型運動に期待を寄せつづけた生コン労働者でした。
冊子には生コン労働者の過酷な労働を伝える貴重な体験もあります。一九六〇年頃は、生コン車には「傾胴型とハイロ型」があって、ハイロ型は「湯飲み茶わん」のようで、急ブレーキをかけると後ろから運転席へ生コンが飛び跳ねてきて掃除をしなければならなかったとか、当時はミキサーのエンジンは車のエンジンとは別で、運転席の後ろについていたため、夏はうだるような暑さだったとか、辛い労働を紹介しています。生コン労働者であれば、会社の違いを超えて、同じ仕事を同じように過酷な環境で働かされていたことがわかります。
しかし労働組合は、関西と同じように最初は企業別組合でした。一九六三年に企業別組合があつまって関東生コン労働組合協議会が結成され、六五年には三職場で二四時間ストライキを実施しました。
『闘いの記録』は東京の闘争であったこともあり、全国的な動きが紹介されています。
一九六三年、全自運の全国生コン共闘会議が結成されます。この共闘会議をつうじて「関西」の運動が注目され、全国的に影響力をもつようになります。
七一年、七二年頃になると、武建一書記長から関西での経験をじかに知ることで、関西生コン支部への注目が関東で高まってきます。これらのことは、関生支部が困難期をのりこえ、七三年からの躍進期に入ったその成果が、全国的に知れ渡りつつあったことを意味します。
また同時に、私にとって感慨ぶかいのは、七六年に東京の生コン部会で「全自運は、イギリスの運輸一般型の業種別運動をモデルにした運動形態を、東京地本でも具体化すること」になったと書かれていることです。連載第一回でふれましたが、私が大学院の時の恩師・中林賢二郎先生が、イギリス運輸一般(TGWU)のような一般労働組合を日本に根づかせたいと願っていた、その想いが地本の末端にまで行き渡りつつあったことがわかります。つまり一般労働組合の理論と、関生運動のその実践とが結びつきながら広まっていたのです。
生コン労組の業者別結集
東京で関生型運動を積極的に受け入れる気運も高まっていましたが、関生支部も物心両面から総力を挙げて援助しました。
まず、「東京」は、統一指導部を確立するところから始めましたが、それは関生支部の経験からみてまったく正しいやり方でした。関東では、セメント系列の専属生コン会社の影響力が強く、また業者の協同組合も活発ではありませんでした。ですが、その状況を変えていく組織的保障は、産業別統一闘争を展開する強固な統一指導部です。そのためには共闘組織から部会へ、部会から支部へという組織改革が求められました。共闘組織は独立した企業別組合が集まっているにすぎません。部会は、全自運の場合は個人加盟が原則でしたので企業ごとに分会がつくられますが、それをまとめる部会の上部はまだ統一指導部ではありません。
共闘組織からすでに「東京生コン部会」へと進んでいましたが、しかし東京の部会は「産業別統一闘争への取組みが決定的に弱い」との反省がなされていました。そして「不退転の決意を持って関西生コンの指導と援助に依拠して闘う」と述べられています。
関生支部からオルグが東京に派遣されていましたが、八〇年、その「工藤オルグの献身的な指導により、部会活動も徐々に軌道に」のり、「業種別の統一指導体制で要求を決め、戦術の行使が可能になる生コン支部を発足させる」方向を打ちだしました。まさしく関西生コン支部をまねた東京生コン支部が結成間近だったのです。それを確実にしたのが鶴菱闘争でした。
「箱根の山」を越えて主戦場に
前回の連載で鶴菱争議は紹介しましたが、それは関生支部の歴史からのものでした。少しダブりますが、この争議における関生支部の活躍と貢献が、関東の生コン労組に与えた影響という面から紹介しておきましょう。
この争議はつぎの構造、〔セメント〕三菱鉱業セメント―〔生コン製造〕三菱生コン関東菱光―〔専属運輸〕鶴菱運輸、という系統のなかで闘われました。
系統末端の鶴菱運輸での組合員全員解雇から争議は起こりました。当然、生コン支部は上の「セメント」と「製造」を攻めました。
一九七九年、三菱セメントの丸の内本社や大槻会長の自宅への抗議行動をくり返しました。そこに関西生コン支部の大量動員による部隊が投入されたのです。警察官との対峙の場面では「東京の面々はオロオロしながら従った」という表現に、産業別闘争のやり方を「関西」が実力をもって「関東」に教えているさまがよく伝わります。
また、本社前での宣伝行動では大槻文平会長を「文平、文平」と呼んだことで、本人は「なんであんな野郎に呼び捨てにされるんだ」とムキになったという話もあります。これが八二年の弾圧の引き金になったかどうかはわかりませんが、だいぶプライドが傷つけられたことは確かでしょう。
八〇年の本社前行動には関西から一五〇人が参加しています。さらに鶴菱の磯子工場には関西からの四七人がかけつけ、総勢一〇〇人で工場を封鎖しました。
まさしく鶴菱争議は、関生支部の実力を全国に知らせるうえで絶好の闘争になったのです。
関東ではその影響力は絶大でした。「関西での三菱セメントの不買運動」や「出荷阻止」などに「啓発された関東の組合は」、「幹部が鍛え上げられ、生コン支部結成の気運」が高まり、そして一九八〇年、東京生コン支部が結成されたのです。
このようにして関西生コン支部と東京生コン支部が並び立ったこの到達点が、戦後労働運動にもたらした意義ははかり知れないものがありました。
木下武男(労働社会学者・元昭和女子大学教授)
『月刊労働運動』2020年9月号掲載