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戦後労働運動史の中から 第16回

月刊『労働運動』34頁(0295号11/01)(2014/10/01)



戦後労働運動史の中から 第16回

 1954年尼ヶ崎製鋼争議(1)

 1951年から53年にかけての鉄鋼業の戦後第一次合理化計画は、時代遅れになっていたこの産業を最新技術により世界的水準に追尾させる大計画でした。日本の鉄鋼業は伝統的に大手の一貫メーカー(製鉄・製鋼両部門を擁する。八幡・富士―のち合体して新日本製鉄、それと日本鋼管)と、製鋼・鋼材に特化した中規模の「平炉メーカー」が併存していましたが、この合理化を経て後者の一部が一貫メーカー化し、またこれら大手の圧延部門(鋼材製造)に技術革新が集中し、従来の製鋼・鋼材専門企業の地位は落ちました。
 ところが、合理化が進行して生産力が飛躍した53年から、日本資本主義をボロ儲けさせた朝鮮戦争の休戦をきっかけに不況が始まり、鉄鋼業ではいま言った中堅企業で深刻でした。不況から抜け出したとき、これらの企業は、ほとんど大手に吸収・系列化されるか、つぶされていたのです。この過程でそうした企業に二つの大手争議がありました。54年の尼ヶ崎製鋼争議と日本製鋼所室蘭製作所争議です。前年の日産自動車争議につづく総評にとっての大試練で、これらの敗北が翌年高野実事務局長退陣の遠因にもなりました。 この二つの争議について話しましょう。まず尼ヶ崎製鋼争議から。比較的知られていないので、少し詳しく。
 尼ヶ崎製鋼(尼鋼)は、平炉メーカーの中ではトップクラスの優良企業でしたが、54年4月、経営行き詰まりを理由に大幅賃下げを発表、さらに企業再建策として2000余の従業員の5分の1の指名解雇を通告しました。ストライキに入った組合側は、会社側のロックアウトに工場占拠で逆襲し、周囲商店街などの「町ぐるみ」闘争を試みました。
 「町ぐるみ」は当時、高野実が主導した戦術です。アメリカの世界軍事支配に日本は従属し、軍事経済化が労働者はもちろん国民各層、中小資本までを圧迫して、国民総抵抗の条件が生まれている。民需転換と中国貿易再開を柱に平和経済への構造転換をはかろう。労働争議においては、同じく苦しんでいる家族や町の住民までを巻き込み、家族ぐるみ、町ぐるみで戦おうというものです。
 しかし、尼鋼争議はやがて苦境に入ります。もともと尼鋼の労働組合はあまり「強い」組合ではなかった。職制層の影響も働く、どちらかといえばおとなしい組合だったとされます。しかし一つの特徴があって、広汎な組合活動の権利、首切りの否認権などを含む、戦後初期には多かった労働協約(49年に占領軍・政府・資本の共同でこうした協約を一掃した)の実効力がここには残っていて、労働者側の既得権になっていました。またある種の経営思想から賃金も比較的高かったのです。だから総評内でもこの組合の将来を心配していなかった。むしろ、鉄鋼での争議続出は予想できましたから、その資本攻勢をまず尼鋼で食い止める、という考えがあったようです。ところが資本側の戦略は総評を追い越していました。
 (次回へ続く)

伊藤 晃 日本近代史研究者
1941年北海道生まれ。『無産政党と労働運動』(社会評論社)『転向と天皇制』(勁草書房)『日本労働組合評議会の歴史』(社会評論社)など著書多数。国鉄闘争全国運動呼びかけ人