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戦後労働運動史の中から 1954年尼ヶ崎製鋼争議(2)

月刊『労働運動』34頁(0296号09/01)(2014/11/01)

戦後労働運動史の中から 1954年尼ヶ崎製鋼争議(2)

戦後労働運動史の中から

第17回 1954年尼ヶ崎製鋼争議(2)

 もともと尼鋼の組合は鉄鋼資本から狙われていたのです。前回見たような労働者の既得権と高賃金、これらが鉄鋼労働運動の目標になるようでは、この産業の合理化の将来は危うい。これは、銀行筋-金融資本の見方でもあった。だから争議の直前に会社がもちかけた労働協約改定は重要でした。これが争議の前哨戦ですが、「実は争議の勝敗はここで決まったのだ」と言う人さえいます。会社の浮沈に関わることだと説得されて、組合側は賃下げも首切りもやらないという口約束を信じて、会社側提案を呑んでしまったのです。組合運動の外堀が埋められたようなもので、その直後、会社側は賃下げで挑戦してきました。
 組合内部も混乱します。旧協約下の職場活動が生んだ青年活動家層から執行部批判が沸き立つ。「首切りは来るに決まっている」「こんな執行部で闘えるか」「執行部の賃金闘争方針は拒否される」。全体の意思統一が回復される前に、会社側は首切り強行まで突き進んだのです。
 それでも4月にストライキに入って、組合側は果敢に戦いました。ところが、ここで資本側が不意打ちを食わせます。6月、会社が巨額の不渡り手形を出したのです。銀行方面の策謀と言う人もいます。会社の倒産など現実に予想していないから組合側は対応が困難でした。不安が拡大する。「生産管理に進むか」「だが製品は鋼材だ。どこに売るんだ」。組合内の分岐は再生し、解雇指名者はどんどん自主退職していく。結局、争議打ち切りが決議され、倒産を理由とした全員解雇さえ受諾して、組合は解散します。
 尼鋼争議勝利の条件はあったか。条件の一つは、鉄鋼労連の統一闘争だったでしょう。鉄鋼不況下、ことに中企業にとって尼鋼は「明日のわが身」でした。しかし、大きな不況が各企業の苦境にすりかえられ、争議が企業毎に分断されることに鉄鋼労連は対策がなかった。労連の中心はやはり大企業の組合です。
 尼ヶ崎という地域に可能性があったかもしれません。ここには住友系の準大手もあるが、尼鋼と同程度の中堅製鋼会社がいくつもあり、それらの青年活動家が日頃交流しあう関係でした。しかし、それを地域産業別闘争として生かせなかった。「町ぐるみ」闘争は、芯が抜けていたわけです。
 その後、尼鋼争議のマイナスの記憶は長く残りました。「不況時に組合が頑張り過ぎると、会社がつぶされるぞ」。このささやきは、60年代まで聞かれます。だが、残さねばならなかったのは、プラスの記憶です。「資本が自己の責任を省みず、労働者に負担をしわ寄せする横暴は許せない。生きる権利、働く権利のために、我々は団結をもって戦う」。戦後労働運動が生んだこの思想は、鍛えられた組合といえないとされた尼鋼の組合においてさえ、強い「意地」となってストライキを支えたのでした。この高さは、全国の労働者の内面に共通して潜在している。それをどうやって汲み尽くし、行動に実現させるか。これを考えることこそ、尼鋼闘争に応える労働運動の義務でした。
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伊藤 晃 日本近代史研究者
1941年北海道生まれ。『無産政党と労働運動』(社会評論社)『転向と天皇制』(勁草書房)『日本労働組合評議会の歴史』(社会評論社)など著書多数。国鉄闘争全国運動呼びかけ人