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■戦後労働運動史の中から 第24回総評太田・岩井指導部と春闘(1)

月刊『労働運動』34頁(0303号12/01)(2015/06/01)

■戦後労働運動史の中から 第24回

総評太田・岩井指導部と春闘(1)


 一九五五年、総評事務局長が高野実から岩井章に代わり、岩井と太田薫を中心とする指導部が成立しました。以後ほぼ一〇年が総評の全盛時代です。大争議が続いた高野時代に対して、この時代は三井三池の大争議があったが、闘争の中心は賃上げの統一闘争(春闘)におかれ、またいくつもの大政治闘争に総評の力が示されました。
 太田・岩井を押し上げたのは、大企業や公共企業体の組合の新進幹部たち。敗戦後各企業で混迷する経営者に対して、労働者を結集する能力のあるわれわれこそ企業再建の力だという自負心をもって組合を作ってきた中堅社員、上層労働者出身の人びとです(岩井章は国鉄機関士ですが、太田薫は大阪大学卒、某大企業の課長職にあった。「めぐまれない労働者の面倒をみる」という心意気で労働運動を始めた人)。働く者の利益を無視して企業の将来はないと考え、時代の空気としての平和と民主主義に立って新生日本への夢を描いていました。いつかお話した総評左翼化の原動力「労働者同志会」はこの人たちの中から生まれました。
 彼らの心の中で、労働組合を通ずる資本への対抗心と、自分が育った企業への愛着心が結びついていることがおわかりでしょう。そして、企業内の労働者を大きくまとめるという経験は戦前派の高野実や細谷松太が持たなかったものですが、その能力・指導力は一面で労働者たちの要求を「請負う」ある種のボス意識に、高い交渉能力は資本との意志疎通能力に発展していくこともあったのです。彼らから見て、大企業での争議で連敗し、そのたびに組合組織を失う高野実の指導は我慢のならないものでした。
 高野路線を批判する太田らの基本的考えは、日本の労働者とその組合はまだ弱い、その力にあまる激しい闘争、ことに政治的に高度な闘争を強いてはならぬ、ということでした。しかし弱い労働者も、自分たちの日常の利益、賃金や労働条件については関心が高いし、一致して戦闘的でありうる、だからこういう身近な経済要求を掲げて労働者の戦うエネルギーを引き出す運動を基本にしよう、というのです。ただし日本の資本は欧米より遅れていて、大変非民主的・権力的だから、経済闘争といえども必ず資本の反動的な政治の壁にぶつかる、政治闘争の課題も避けてはならない、とされました。この考え方は「日本的労働組合主義」と呼ばれることになります。
 総評議長としての太田薫は陽気な人で人気もありました。いざ戦いだとなれば、大きなことを声高く叫んで労働者を励まし、世間を驚かせ、日経連(資本側の対労働運動組織)の前線指揮者前田一と派手にやり合う。「太田ラッパ」などと言われました。マス・メディアが労働運動リーダーを追いかけ回すようにして登場させるのは初めてのことでした。
 さまざまな団体との調整役で手腕を発揮した岩井章事務局長とは、よいコンビでした。
 (次号に続く)
伊藤 晃(日本近代史研究者)