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戦後労働運動史の中から 第25回総評太田・岩井指導部と春闘(2)

月刊『労働運動』34頁(0304号12/01)(2015/07/01)


戦後労働運動史の中から 第25回
総評太田・岩井指導部と春闘(2)

総評太田・岩井指導部と春闘(2)


 (前号から続く)総評はいくつかの「産業別組合」と公務員・公共企業体の労働組合の結集体です。しかし産業別労働組合といっても、欧米のそれのようにその産業の労働者を企業を越えて組織するものと違い、主として大企業に作られた企業内組合の連合体でした。国労や全逓なども公営企業内の労働組合です。
 この企業別組合は戦後労働運動の支配的な組織形態ですが、資本との親和・妥協に陥りやすく、企業の利益に労働者を従属させるものとして批判の対象になってきましたが、その克服はなかなか困難でした。総評太田・岩井指導部は、企業別組合を与えられた現実として受け止め、その中で可能なかぎり労働者のエネルギーを汲み出していく方向をとりました。太田・岩井を押し上げた大企業組合幹部の立場を認めながら、その狭い視野を拡げていこうとした、ということです。そのために構想されたのが、賃上げ統一闘争としての春闘でした(実質上一九五五年に開始)。「産業別組合」の力はこの春闘に集中されることになりました。
 春闘は次のような「定式」で戦われました。業績のよい産業の産業別組合が先鋒となって賃上げの足掛りを作り、これを目安に公労協・公務員組合が頑張り、ここにその年の「春闘相場」が作られて、全産業に及ぶ賃上げ闘争を引っ張る。各産別の闘争は、大きなスケジュール闘争に組み立てられて、総資本を圧迫する。太田たち指導部は、腰の弱い企業組合も、この統一闘争に支えられれば戦いについていける、と考えたのです。太田の有名な言葉―「暗い夜道もみなで手をつないで行けば怖くない」。
 太田たちは「弱い労働者も賃金のためなら立ち上がる」と言ったのでしたが、確かに当時、労働者の賃金は低く、生活の安定と将来の見通しもおぼつかない状態でしたから、春闘には多くの労働者の関心と熱意が集まりました。そして、六〇年代にかけて相当の賃上げを実現したことも事実です。春闘は、資本側が合理化と生産性向上を軌道に乗せながら膨大な剰余価値を独占するなかで、労働者が本来得るべきものの奪還をめざした闘争なのです。大幅賃上げ要求と資本側の「安定賃金」構想が激突し、組合側も負けていなかった。労働者の生活水準はやっと「人間並み」に近づき、労働組合への信頼も高まりました。「戦えば賃金は上がる」という実感があったのです。春闘という言葉は、今もまだ使われている。それが労働者の記憶に生きているからです。
 春闘に問題がなかったわけではありません。
①「生産性向上にふさわしい賃金」、つまり生産性向上の裏面での配分闘争という性格。
②大企業と中小企業、正規労働者と非正規労働者との賃金格差をなかなか縮められなかったこと。
③急速に進む合理化との闘いをテーマにするのを避けたこと。
 これらについては、いずれお話する機会があるでしょう。
伊藤 晃(日本近代史研究者)