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闘いなくして理論なし第8回 動労千葉が歩んできた道

月刊『労働運動』34頁(0326号12/01)(2017/05/01)

理論なくして闘いなし 闘いなくして理論なし 第8回
★動労千葉が歩んできた道

労働運動の変革をめざして

田中 康宏(国鉄千葉動力車労働組合執行委員長)

マルクス主義講座として動労千葉労働学校の講義の抜粋を掲載しています。

【4月15日の講演から抜粋】

★はじめに

 第17期の労働学校の開会が出来たことをうれしく思っています。前校長である中野洋顧問は、労働学校でマルクス主義を学ぼうといつも訴えていました。なぜか。マルクスだけが労働者こそ社会の主人公だと声を大にして言ったたった一人の人間だからです。社会のすべては労働者が動かし、労働者階級が歴史をつくっている。しかし、資本主義社会では労働者は単なる生産過程の中に組み入れられて、労働力を売って賃金をもらう存在になっている。こんなことでいいはずがない。マルクスは資本主義の本質を明らかにした。歴史の主人公であり、社会の主人公である労働者の団結した力は社会を必ず変革する。だから労働学校ではマルクス主義を学ぼうと訴えていました。
 もっとわかりやすく言うと、労働者を蔑視(べっし)しないこと、今は自分に何の力もないと思い込んでいる労働者、そういう一人ひとりの労働者に社会を動かす力がある。労働組合は労働者を蔑視する思想に陥らなければ必ず勝てる。こう言い続けたのが中野顧問でした。今の労働組合で労働者のことを信頼している幹部がどこにいるんだと。労働組合の幹部の顔をして、現場の労働者のことを全然信頼していない。労働組合を変えたいと。
 今、労働組合は本当に情けない現実にあります。韓国の労働者たちが怒っている以上の腐敗が日本にはあり、労働者を突き落としていく政策が行われています。にもかかわらず日本の労働者はまだ立ち上がっていない。この現状を変えたい。労働組合のあり方を変えていく小さな芽を作る、そういう労働学校でありたいと思っています。
 この労働学校は知識を学ぶところではなく、労働者が自らの存在に気付き、誇りを取り戻し、職場で闘う力を取り戻すための労働学校だと思っています。だからどんな小さな闘いでもいいから、労働学校で学んだら職場で声をあげて仲間を組織してほしい。小さい職場の小さな闘いの芽がいっぱい出来たら、それをつなげていく。この力は必ず連合や腐りはてた組合の幹部たちを倒す現場の力になるはずだと思います。

1.闘う労働組合への脱皮

 動労千葉は、初めから闘う労働組合ではありませんでした。
 1951年に当局の介入で職種別労働組合として、機関車労働組合が結成されました。その後、闘う労働組合へ脱皮していきます。1959年に動力車労働組合へ名称変更し、総評に加盟します。動労という労働組合が戦闘的に変わっていく一つのきっかけは事故です。1962年に三河島事故、1963年に鶴見事故が起き、当時の組合本部は、事故問題を労働組合の闘争にはできないという考えでした。動労青森大会に集まった代議員は本部が結んだ事故防止委員会設置の協定の批准を怒りの声で拒否し、執行部は総辞職。こうして労働組合が生まれ変わっていきます。しかし、新たな執行部は次の方針を出せず、同じことを繰り返していく。
 これは国鉄労働運動の中で何度も繰り返したことです。1986年国労修善寺大会は、現場組合員の怒りの声で本部の大胆な妥協路線を否決します。執行部総辞職、新執行部が立ったが、新たな方針が出ない。2000年の「4党合意」の時にも同じことが起きる。
 動労千葉が闘う労働組合に変われたのは、動労千葉地方本部が出した方針を否決し、その時に以前から本部方針ではなく、現場で現実の闘いを全部作っていて、1年間の議論を通してただちに次の方針が出たのです。だからここで変われた。そういう時に、現場の労働者の団結する力、エネルギーがどこまで発揮されるのかということを僕らは経験したのです。
 国鉄は1967年から69年に大合理化で5万人の要員を削減する。その中心は機関助士の廃止ですが、全部青年部の組合員だったので激しい闘争になりました。しかし、ストライキ方針だけで、事故問題を資本のアキレス腱にして闘う方針は出ない。一人乗務の安全性の検証委員会を作ろうとなって集約されて、その後の反合闘争の展望は失われていったのです。
 その後、1969年に磯崎総裁が誕生し、国鉄マル生攻撃が始まりました。一般的な生産性向上を職場に強制していくのではなく、ものすごく激しいイデオロギー攻撃でした。労働者をマル生教育に連れて行って、共産主義は間違っている、国鉄のために命を尽くす、これが労働者の道だと洗脳的に教え込む。つまり組合つぶしです。
 さて、その時に、動労千葉地本は、動労の中で最も右派の執行部でした。ほとんどの支部がストライキを返上してしまう。

※滝口解雇撤回闘争

 1968年、マル生の走りで、新小岩の機関区で青年部長だった滝口誠さんが解雇されます。泊まり勤務の時に一杯飲んだという理由です。機関助士でしたが、機関士も飲んでいるのに、青年部長だけ狙い撃ちにされた。当時の動労千葉地本は、本人が酒飲んでいるから仕方ないと、委員会にはかけたが一票差で犠牲者救済規則の適用しない、組合としては闘争をしないとした。
 中野洋さんは当時千葉気動車区の若手の活動家で、職場に影響力を持っていた。「滝口君を守る会」を作って、組合員を全部組織していく。裁判闘争にも勝って職場復帰を勝ちとった。当時、他の支部が全部ストライキを返上する中で、千葉気動車区だけは、機動隊が職場に突入してくるような状況の中で、職場にバリケードを組んで春闘のストライキを一支部だけが貫徹した。地本はなすすべがなく現場が全部動かしているところまで行く。こうして闘いが始まったのが動労千葉の発端です。
 そういうエネルギーを与えたのは、1965年にできた反戦青年委員会で、千葉県反戦青年委員会の議長は中野さんでした。戦争反対のエネルギーが職場に還流されて、青年たちが力を蓄えていったのです。職場を支配していた層がマル生に行き、自己批判して戻らざるを得なくなったが、権威を失って、青年部の若手が職場の力を握っていく過程でもありました。
 1972年、船橋駅で列車衝突事故が起きます。本部も地本も労働組合の闘いにできるはずがない、520人くらいの負傷者が出ていて船橋周辺の病院に入院している。しかし、地本を突き上げて、現場から闘争を組織したのが船橋事故闘争で、これが決定的な転換点になった。
 もう一つ、同じ時期に、対当局との間ではなく、動労の中で青年部問題が起きます。当時、動労の青年部、東京地本を革マル派が握り始めていました。動労千葉地本の青年部が、滝口さん闘争などで戦闘化することに対して、挑発分子だという感じで、1970年に水上で動労千葉青年部がテロ・リンチされることが起きました。これは何だと、千葉の青年部は地本を突き上げて問題にし、ちゃんと指導しろ、それまで青年部の行動には出れないとボイコットする。本部はそれを逆手にとって、行動に参加しない組織破壊分子だと仕立て上げていく。
 一方で地本の右派執行部の問題、もう一方で組織の中の問題が起きる。闘いが高揚しようとすると、必ず右が抑えにかかる必然的な問題です。千葉地本の中で青年部問題が問題になる。
 具体的には、千葉地本青年部6名の常任が組合員権停止の処分を受けて、査問委員会が設置される。本部は地本に対して青年部を統制処分しろと。地本は本部に屈っするんですよ。本部指導を確認するための臨時大会が1973年に開かれる。
 中野さんはじめ若手の現場は「ふざけるな」と大会にみんな集まってくる。本部から何人も指導に向かってくる。そこで本部の青年部統制処分に反対の決議が45対13の圧倒的多数で通るんです。だから地本執行部は総辞職。動労5万人の組織の中で、千葉地本が真っ向から組織指導に反対を決めて、これからどうなると誰も予想もつかない。臨時大会は執行部総辞職の意思を表明し、時間切れで休会になった。
 ここからは、三河島事故の大会と違った。同じ年に臨時大会を3回やって、都合4回やる。動労という組織をめぐる問題を組合員あげて徹底的に議論して、「自分たちの労働組合は何か」と。つまり要求とかではなく、組織そのもののあり方が問題になった。本当は大事なはずの労働組合は一体何なのかと。簡単に次の執行部は決まらない。最後に5回目に定期大会で、勝浦でやって会場は時間切れになり、海岸で関川さんが委員長に立候補し、中野さんが書記長に立候補し、決まったのです。
 この過程が大事だったと思うのです。つまり怒りの声でひっくり返すということは労働運動の歴史の中でいくらでもある。しかし、ひっくり返したら、責任をもって次の方針が出るところまで組合をあげて議論をする。これが出来たことが動労千葉の出発点です。だから1973年は、実際上、動労千葉の新しい出発点で、ここに新しい執行部が誕生した。その時にはもう運動の実態はできていて、滝口さん解雇撤回闘争で全組合員を巻き込んでいたのです。
 もう一つ、これから述べるその前年の船橋事故闘争。これに組合員は、これこそやりたかった運動だと総結集していく。だから組織を変えただけでなくて、組合員と共に闘う次の方針を、すでに現実に現場でつくっていた。これが動労千葉の出発だったと思います。
 だから現場の労働者の闘いがすべてを決めるということです。どんなに小さくてもいいし、そんなにうまいことは行かないと思うのですが、このことだけは確信を持ってもらいたいと思います。

2.船橋事故闘争と反合・運転保安闘争路線の確立

 闘う執行部への転換を決定づけたのは、船橋事故と反合・運転保安闘争路線の確立でした。千葉地本の問題というより、鉄道で働く労働者全体がこういう闘いを求めていたことが実現できたと思っています。
 1972年3月28日、船橋駅で総武各駅列車の衝突事故です。どうして起きたのか。変電所が老朽化して、信号電流が途切れ、信号が全部真っ暗になった。本来、直ちに止まらなければいけない。しかし、電車は2分半間隔で動いていた。本来、前の列車に近づきすぎるとATSのチャイムがなってATSで列車が自動的に止まる。だけど確認ボタンを押すと解除できる。しかし当時は、列車のダイヤの維持のために「確認ボタンを押して詰めろ」と違法な指導が行われていた。
 構造的にも、鉄道は信号と信号の間に列車一本しか入ってはいけないと、これで安全が保たれていた。閉塞方式です。だけど列車が詰められないから、信号を確認ボタンを押して行けと言うのです。だから閉塞の信号と信号の間に違法な信号をもう1本作った。番号を付けられないからゼロ号信号機。そういう状況で、信号が全部消えたから、運転士はパニックになる。それで進めてぶつかったのです。
 520人くらいの重軽傷者が出て、運転士の高石正博さんは警察に直ちに引き渡されて留置された。恐らく現場は凍り付いたはずです。それと激しい怒りの声だったと思います。三河島事故、鶴見事故を見て、それに対する労働組合の対応を見ていて、後に中野さんは「事故で、ここで闘うかどうかが、労働組合の分かれ道じゃないか」と思ったと言っていました。
 当時、4月27日に公労協の統一ストライキが構えられていて、それに向けて闘争をやることがあってもおかしくなかった。4月2~3日から地本を突き上げて、強力な順法闘争、実力闘争に入れと。千葉から中野まで1時間ぐらい走るのを2時間ぐらいかけて行く。だから乗客は暴動に近いような状況になる。しかし、「高石さんを守れ」「明日は我が身だ」「裁かれるべきは国鉄当局だ。運転士への事故責任の転嫁を許すな」と。順法闘争は運転士にとってみれば大変なことです。だけど事故直後にこういう形で闘争に入った歴史はなかった。ここまで強烈に闘いを提起した時に、「そうだ。これこそ俺たちが絶対問題にしなければいけない。事故の問題こそ俺たちの最大の問題じゃないか」と。これは今までは口に出なかった現場の気持ち、怒りの声が全部明確になって出てきた。25日から強力順法闘争をやりぬき、それからストライキやいろんな闘いを継続する。
 裁判が始まれば、動員をかけた倍の組合員が来る。三河島の時とは違う、組合員の気持ちを解き放つことになった。これが、動労千葉の揺るがない団結の原点をつくったんです。そのくらい組合員の気持ちを捉えた。
 今のどの職場にもあると思います。医療、郵政、教労で、絶対こういうものがあるはずです。でもそれは火の中に飛び込むような気持ちでやらないとだめだね。だって周りの病院にはみんな怪我人が入っている状況です。だけどこれは乗客の命を守る闘いだと、断固として闘争に入った。それは通じるわけです。何よりも組合員が本気になるから通じる。
 国鉄の事故に対する初めての闘いだった。その時から反合・運転保安闘争路線ということを考えていたはずではないと思いますが、これで組合が闘わなくて意味があるのかと。
 この闘争は、地本の右派執行部を倒すという意味でも決定的だったと思います。しかも5万人反合理化闘争の中で反合闘争がデッドロックに突き当たっていった時に、反合闘争の新しい展望を切り開いた。
 これまでの反合闘争は、例えば要員削減や労働強化が提案されると対抗して闘争する。だけど提案されたものは、実際上は結果なんです。会社は4月1日付でこれをしますと。組合がストライキをやろうが何をやろうがやるという形でやられるわけです。せいぜい10人の要員削減の提案が8人になるとか、全部受け身なわけです。
 しかも鉄道で言うと運転士の合理化が提案された時には検修はやらない。保線の合理化が提案された時には駅はやらない。だから個々分断されて交渉するだけ。誰も関心すら持つことができない。だから反合理化闘争は全部受け身です。せいぜい合理化をのむかわりに時間短縮というバーターになる。執行部が提案された時点で、もう仕方がないと思っている。闘争になるはずがない。せいぜい1割バックするか2割バックするかと執行部も思っている。しかし、事故という問題をこれこそ反合理化闘争の最大の問題だと位置付けたときに、受け身ではないことができるわけです。
 実際、1973年に闘う執行部が出来て、まずやったのがここで確立した反合・運転保安闘争をもっと押し広げる闘争でした。中野さんがやったのは、線路を組合員を総動員して全部歩かせて、「ここが危険だ」とチェックする。申し入れをする。それだけはなく、組合で「この現実だから、ここは60キロのところ50キロにしろ」と組合指令で徐行をかける。当時、1日3000分ぐらいの遅れが出た。「根拠はある。見てみろ。線路がボロボロじゃないか。こんなところを走らせていいのか。お前らがちゃんと直せば所定の速度に戻すだけの話なんだ」と。攻める反合理化闘争になる。直らない以上はと言ってゴリゴリ闘争をして、次のダイ改で直るまでは、今度は遅れじゃなくてその速度で列車のダイヤを設定させた。
 つまり職種ごとの分断とか、すべてが受け身とか、そういう反合理化闘争を、事故という問題を最大の反合理化闘争の課題にすることを通して転換できた。これもおそらく、鉄道の場合だと事故ですけれど、いろんな職場で現場の怒りの声を結集して、一つ力関係を転換していくものが絶対あるはずです。現場に、労働者の中に知恵があるはずです。そういう闘いを組織しなければいけないと考えてもらえたらありがたいと思います。
 その時に、反合理化闘争の新しい地平と言ったのですが、それまでの反合理化闘争はいろんな勢力が言うけれど理屈だけなんです。現実の闘争じゃない。僕らの所属していた動労は、教条的に合理化絶対反対は叫ぶ。だけど現実の闘争は全くない。だから言葉だけの遊びです。
 ここに引用しておいたことがあるんですけど、「本当の反合理化闘争とは、資本主義そのものの打倒へと結合して発展するものでなければならない」。素晴らしい提起でしょう。これはデッドロックにぶつかった5万人反合理化闘争の時に、国労が反合闘争の指針として出した一節なんですよ。結局これはどういう効果を持ったかというと、「資本主義の打倒に向かって発展するものでなければいけない」。でも今は資本主義社会だから結局闘えないと納得させるだけの意味になる。これ、革命をやらなければいけないということでしょう。だけど絶対可笑しいことが一つある。誰がやるんだと。労働者だろうと。今闘えない労働者が、そんなこと言ったって空論だろうと。労働者は階級的な力を自覚するという闘いがあって、初めて資本主義を打倒するという力になるわけでしょう。だから今この攻撃に対して闘う指針を打ち立てなければいかないじゃないかと。こういうふうに言葉でごまかすということに対して、僕らは現実の運動として反合闘争の路線を提起したということだったと思います。
 さらに言うと、こうした形で反合理化闘争が自分の労働に対する誇りとか、もっと言えば責任を自覚する闘争になったということ、これが大きかったと思います。昔は当局と協議して、安全をどうするかなんです。今度は違う。安全を守る唯一の道は労働者が闘うことしかないんだと。俺がこの労働で安全を守っているんだと。これは団結を生み出すわけです。辻川さんの言う「労働の奪還」です。
 事故というのは1人の労働者が起こすものです。1人の労働者を守るということの中に、普遍的な国鉄の合理化を止めるという、こういう考え方なわけです。だから言葉だけでなく「1人は万人のために、万人は1人のために」という原点が現実の運動になるわけですよ。そういういろんな意味を持って、この反合運転保安闘争ということは新しい地平を開いたのかなというように思っているわけです。

3.ジェット燃料貨車輸送阻止 闘争と動労本部からの分離・独立

 新しい問題が降りかかってくる。このあたりから私が鉄道に入ります。
 1977年に福田内閣が出来て、それが所信表明演説で成田空港開港と労使正常化を言う。組合を潰すという意味ですね、正常化とは言うけれども。空港開港と労使正常化。それまで成田の空港では農民の激しい闘争が闘われている。いよいよ開港するんだと。開港するネックが二つあったんですよ。
 ひとつは農民だけでなくて、沿線の住民の激しい反対運動があって、千葉港なんかから燃料を運ぶパイプラインが全く出来ていなかったんですよ。それともう一つは、農民が造った60メートルぐらいの鉄塔が開港する1本の滑走路の南端に立っている。これを撤去しないと絶対に飛行機は飛べない。この二つを処理して空港を開港する。
 燃料のほうは暫定貨車輸送なんです。パイプラインじゃなくて貨車で運ぶ。これを担当するのは成田運転区、佐倉機関区、新小岩機関区、蘇我機関区、この四つの職場とも全員動労千葉の組合員。動労千葉は青年部を中心にして成田闘争と連帯して闘っていた。
 それだけでなくて、ここであいまいな態度をとったら、どうなるか。国策で、動労の中には激しく千葉を潰しにかかっている動労本部がいる。だから現場は第2組合がつくられてグチャグチャにされる。だからある種選択肢はなかったと思うんです。断固として闘う以外になかった。組合員の団結を固めさせた。一番重大なことは、反対同盟を裏切ることはできないということはすごく大事ですが、あいまいな態度をとったら本部と当局が一緒になって組合分裂策動を徹底的にやるだろうと。だから動労千葉にとって避けて通ることができない課題だった。新しい執行部が出来たとたんにこういう問題が生まれてきた。
 しかも、73年に闘う執行部が出来てから青年部問題をめぐるやり取りがあったが、いよいよ動労千葉破壊に本部が腹を決めて、1976年に東京で臨時大会を開催し、臨時大会で千葉地本の再登録を決めるという。千葉の全員の組合員権を白紙に戻して、本部の方針に従う人間だけ再登録するという意味です。
 空港の燃料輸送闘争が間近だった時期だった。ここで重大な決断をして、動労全体の大改革を決意して乗り込んでいく以外にないと決断した。
 (次号に続く)