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闘いなくして理論なし第9回 ★動労千葉が歩んできた道

月刊『労働運動』34頁(0327号10/01)(2017/06/01)

理論なくして闘いなし 闘いなくして理論なし 第9回
★動労千葉が歩んできた道

(写真 動労千葉の分割・民営化反対ストライキ)

労働運動の変革をめざして

田中 康宏(国鉄千葉動力車労働組合執行委員長)

マルクス主義講座として動労千葉労働学校の講義の抜粋を掲載しています。

【4月15日の講演から抜粋】(前号より続く)

3.ジェット燃料貨車輸送阻止闘争と動労本部からの分離・独立

 ここまで来たら動労全体の大改革を決意して、乗り込んでいく以外にない。勤務以外の組合員を総動員して、千葉地本再登録の大会に乗り込み、積極的に青年部問題に決着をつける。つまり本部のテロ・リンチを受けるからと言って参加をボイコットするという方法はとらない。行動の統一は回復するが、我々が主張していたことは譲らない。表現、言論の自由はあるだろう、僕らは積極的に動労全体を変えるために乗り出すと。
 ガンガンやじられる状況の中で、中野顧問が大演説して、虚を突かれて再登録できなかったわけです。全組合員あげて乗り切った。ここでも労働組合をどうするのかという議論を組合員あげてやっている。これが本当に大事だと思います。要求がいいとか悪いとかではなく、この組合そのものをどうするかと。
 その後、中央委員会にジェット燃料貨車輸送阻止の特別決議を持ち込んで決定させて、いよいよ闘いに入ることになった。
 この闘争は動労千葉組合員の意識を本当に大きく変えました。それまで千葉、企業内のことをやっていた組合だった。初めて国策と対決して立ち上がる。どういう議論になるか。「そこまで一緒になって闘うのか」という意見はもちろんある。だけどそれ以上に「闘うのはいいとしても、ストライキをいくらやっても止めるのは不可能じゃないか。じゃあどこまでやるのか」と。そういう中で、「今あいまいな態度をとったら、本部と当局が乗り込んできて、僕らの団結はバラバラになるぞ」と。あいまいな態度はとれない。これから先の展望は闘う中でしか生まれてこない。これは動労千葉の団結を守るためには絶対避けて通れない課題じゃないかと議論しました。
 さらに、反対同盟への連帯だけでなく、これは自らの闘いなんだと。運転保安確立でやってきた。ジェット燃料は、一度ひっくり返ったら、新宿駅で米軍のタンク車が炎上になったような事態になる。危険なものは絶対に運ばない、国鉄労働者の誇りとしてやらなければいけない。
 さらに、労働時間短縮の協定を結んでも人がいないから現実には短縮できない中でさらに業務を増やすのかと。これは反合闘争の課題でもあると。何よりも組織破壊攻撃との闘いだと。
 とことん議論して、単なる連帯闘争ではなく全体が自分自身の闘争としてやった。この闘争で5人解雇者を出しています。動労千葉地本が闘う執行部として闘って初めての解雇です。だけど動揺は全然なかった。むしろ想像を超えるような支持、支援の声が上がったんです。当時は県労連や県公労が全面的に支援、日本の左派勢力は全部注目してくれて支援。総評の中にある国民会議も全面支援。これは組合員の意識を変えた。この闘争がなかったら国鉄分割・民営化反対闘争は闘えてなかったと思います。断固として避けて通ることはできないと決断をしたところから始まっている。
 この闘争がもう一つ新しい事態を生み出した。千葉地本が全国の脚光を集めて闘いを始めたことに危機感を燃やした動労本部は、その翌年1978年の津山大会で「三里塚闘争とは一線を画する」という方針を提起し、千葉地本は三里塚闘争に参加してはならないと決定します。僕らは「ふざけるな。僕らは農民との連帯をかけて首をかけて闘っているんだ」と。つまり動労千葉が自らの力で闘わなければいけない過程に入った。翌1979年3月30日、動労千葉の執行部を統制処分するための臨時中央委員会が東京で開催される。三里塚闘争を闘ったからという理由です。僕らは千葉地本臨時大会を招集して、東京で関川委員長以下、動労千葉執行部に対する統制処分が決定されたと同時に、看板を書き換えて動労千葉結成大会を開いた。  この分離・独立の闘いは本当に組合員を鍛えました。独立した後、本部は動労千葉を破壊するために何万という、オルグと称する組織破壊の部隊を送り込んできた。労働組合だけではなく、革マルの学生まで入っている。当局と一緒になって職場に襲撃を仕掛ける。津田沼の4・17襲撃の時は、僕も中にいてボコボコにされたからよく分かっていますが、当局が容認して、バールや竹竿を持って職場を襲撃して、もちろん列車が止まる。出勤できないのだから。当局は容認した。千葉の運転士は東京に乗り入れて、中野や御茶ノ水、東京駅まで1人で運転して、向こうは10~20人と待っている。勤務中です。自宅に「旦那さんは動労千葉にいたらクビになります」とかみさんオルグに来る。
 これが本当に組合員を鍛えました。一人ひとりが真剣に自分たちは労働組合で何をしようと思っているのか真剣に考えて、労働組合はこれではいけない、こういう組合にしたいと頑張ってやった。
 当時の総評で言われたことは、「理は動労千葉にある。だけどかわいそうだが潰される」と。だけど崩れなかった。こういうすべてが、闘う労働組合として今も存在できている力になっている。無駄なことなんかなかった。やはり労働者自身が自分で決断し、自分で判断し、もちろん団結して進む。そういうことをいっぱい経験してきたということかなと思います。

4.国鉄分割・民営化反対闘争

 こういう状況の中で国鉄分割・民営化攻撃が始まります。1981年2月、第2次臨時行政調査会が民営化攻撃を出す。81年、動労千葉はジェット燃料貨車輸送阻止闘争で最大規模の5日間ストライキを打って、4人クビになっている中で、国鉄分割・民営化が始まった。
 国鉄分割・民営化は、行き詰まった日本資本主義のあり方を行財政改革と称して、国家のあり方を根本的に改造しようということでした。そのために邪魔な労働組合をつぶす。当時の日本の労働組合は日本労働組合総評議会(総評)と言いました。その中心部隊が国労、つまり国鉄の労働組合だった。「国労をつぶせば総評がつぶれる。総評がつぶれれば社会党がつぶれる。大掃除が終わって、立派な憲法を安置できると考えてやった」と中曽根が言った通りです。当時、電電公社(NTT)、専売公社(日本たばこ)が民営化されましたが、国鉄だけは特別な位置づけでやられました。単なる民営化ではなく、戦後最大の労働組合破壊ということが民営化の目的だった。だから一般の民営化じゃなく、組合をつぶすために分割・民営化の道をとったわけです。 
 戦後最大の労働組合破壊攻撃でした。1981年民営化が始まった時に国鉄労働組合は24万4千人組合員がいました。1987年民営化時は国労組合員は4万人です。20万人が脱退か退職せざるを得なかった。毎月1~2万人が脱退していく。こんな労組破壊攻撃は他にない。総評は2年後に自ら解散し、社会党は1995年に解散します。社会的な力関係が変わって、非正規化や社会保障制度の解体、人間が生きていく最低限の条件が全部攻撃された。社会のあり方が大転換した。
 同時に、国鉄分割・民営化は戦後最大の首切り攻撃でした。6年間で20万人が国鉄を追われた。1987年には7600人が首になり、そして最後まで頑張る仲間たち1047名が生まれたのです。大規模な首切り攻撃だったということです。
 日本の労働組合が全部震え上がった。国には逆らえないと。国鉄分割・民営化は日本における新自由主義の暴力的な導入の典型的な姿だったのです。
 それに対して日本の最強の労働組合だと言われていた国労や動労は、全く有効な闘いを展開できなかった。闘う条件がなかったかと言えば、全くそうではなかった。自ら引いていった。ここを乗り越えることが、日本にもう一回闘う労働組合を甦らせる道だと確信しています。
 しかもこの攻撃は、戦後政治の総決算で、憲法も戦後的な教育も、民主的に作られたもの全部を総決算する攻撃でした。だから中曽根は国鉄改革の次には教育改革だと臨教審を作った。「日の丸・君が代」の強制や、教育の規制緩和です。勝手に学校を造れる、その成れの果てが森友学園です。国の金から利権にまみれる腐りはてた社会ができた。それが戦後政治の総決算ですよ。もう一歩進んだら憲法を変えて戦争をするということです。
 国鉄の中で労働運動の三つの分岐が起きます。
 一つは国労で、頭を低くして、嵐が過ぎ去るのを待つ。
 動労は露骨で、当時は一応、分割・民営化反対でしたが、働こう運動を提唱し、民営化にむけた労使共同宣言を締結し、最後は突然総評からも脱退した。
 動労千葉は闘う道を選んだ。動労千葉は1985年11月、1986年2月、2波のストライキで闘うことを決断します。
 どうして決断したのか。この攻撃がこれまでの延長線上ではないことは早い段階から見据えていました。自ら動労本部とも、三里塚闘争とかいろんなことを闘っていたから見えた。だけどこの攻撃にどう対抗したらいいのか方針は簡単に出てこない。83~85年ダイヤ改正の毎に万という単位で要員削減する。余剰人員が生み出されて、首切り要員が生み出される。だけど対抗する有効な手段がない。僕らの組合員も運転士でも余剰人員扱いで駅の尻押しに出されていく。でもその段階ではまだ一応交渉に応じたわけです。
 僕らが決定的に腹を決めたのは、85年の7・26国鉄再建監理委員会最終答申の1か月前に、仁杉国鉄総裁を更迭し、分割・民営化強行の杉浦国鉄総裁が登場した。事態が一変した。中曽根の声一つで総裁が変えられた。職場の雰囲気も一変する。
最終答申で国鉄分割・民営化の仕方が全部明らかになった。3人に1人は首です。闘いの方針を出さなければ、組合員同士が俺が生き残ると足の引っ張り合いが始まる。しかも国労は闘わないし、動労は分割・民営化賛成になっている。動労千葉が生きる道は、闘争方針を明確に出して、そのもとに組合員、家族が団結する以外に道はなかった。この時の決断者は中野洋委員長でした。中野さんの顔はこの答申を読んで決断するまでは真っ黒になっていた。組合員を首にするということなんです。だけどそれしか道はない。その決断をするまでの半年間は、近寄れないくらいの怖さだった。だけど決断したら、果敢にとにかく組合員と家族の団結を固めるということです。
 9月第10回定期大会で腹を決めて打ち出した。本当に中野委員長が一世一代のアジテーションをした。「闘う以外の選択肢は全くない。この闘争をやれば支部長をはじめ、相当な首が出る。これも覚悟してほしい。だけどこのままなめられていいのか。今は労働者が徹底して蔑視されなめられている現状だ。少なくとも対等な力関係にもっていかなかったら、本当にどぶに捨てられるだけで終わる。そのためにストライキをやろう。これを大会で決定し、決定したら全支部が、家族も含めて地域の仲間も含めて各地域で集会を開いてほしい。支部大会をただちに開いてほしい」と。東京では支援に向かってストライキに入ることを全体に伝える集会を開き、全部を組織して、決めたら後は団結を守ればいいわけです。徹底してやって、それまでの闘いの蓄積があったから、腹を決めたらうちの組合員は強かったよね。
 だけどみんな悩まない人間はいないです。みんな悩んで家族会議をしながら、だけど揺らがなかった。その時に本部の大会でストライキをやると決める。支部長は少なくとも全員首だと。それから全支部大会を開く。その時に一人も支部長が支部長を下りなかった。これで団結は揺るがないと。支部長が腹を決めたら、支部の組合員は自分で選んだ支部長だからね。こういう過程を経てストライキに突入していったんです。
 だから腹を決めた以上、何を獲得課題にするのかも明確にした。第1波ストライキは、首を切るために雇用安定協約の破棄をしようとしているからそれの完全締結。それと動労千葉が闘いに立ち上がることで、国労の仲間たちがストライキに立ち上がらなければ勝負がつかない。我々が立ち上がることで、国労への決起を呼びかける。これが獲得目標だと。
 雇用安定協約の完全締結は、全部がグラグラになっていた。国労は結んでくれと頭を下げていた。「こんなことをやっていたら絶対ダメだ。完全締結と言ってストライキを構えて、全部ぶっ飛ばさなければいけない。そうしなければ対等になれない」と決めてやったのが第1波ストライキです。それで私は首になった。でもやらなかったら動労千葉も、国労は24万人が4万人だから、当時1300人の動労千葉は何人になるんだと。だって労働者は自分が助かりたいとみんな思うわけです。
 20人の解雇者、3600万円の損害賠償。列車の仕事を全部東京にとられて、千葉だけ余剰人員が山盛りになった。千葉から運転しなくても東京から運転できると、業務移管という形で動労千葉を余剰人員化していく。だけど闘いに立ったら揺るがなかった。
 しかし、本当の意味で組織破壊攻撃が吹き荒れたのは翌年86年になってからです。国鉄分割・民営化関連5法案が閣議決定され、国鉄当局が職員管理調書、つまり職員の選別の調書を作成し、広域配転や企業人教育とか多能化教育が開始され、応じた人間だけが助かるということがやられ、さらに全国1010か所に人材活用センターという、活動家と役員の強制収容所が設置されました。組合役員活動家は全員配転されて職場にはいない。約2万人が隔離されました。
 動労千葉は、この嵐の中で中途半端に終わらせたらダメだ、本当の組織攻防、団結を守るためにはこれからだと、第2波ストライキを決断したのです。20人の解雇が出ている状況で、この決断はすごく重要なことだったと思います。明確に組合員に「声をあげよう。もう一波やる。これで絶対団結を守って乗り込むんだ」と。
 1957年に国鉄新潟闘争があり、新潟の国鉄労働者が戦闘的に頑張ったが、バタバタ首を切られて、組織は分裂して御用組合の鉄労が出来ていった。だけどみんなが新潟の闘いに感動して、全国からはせ参じて応援した闘いだった。現場は戦闘的に闘っていながら、幹部たちは首を何人にするとかを当局とやっている間に、政府は十何人首を切ってきた。だからこんなことは乗り越えたいと思ったのです。つまり闘って分裂するのでは労働組合はみじめじゃないかと。戦後最大の労働争議と言われた三池も戦闘的に闘って分裂した。だから2波のストライキを闘い抜いて分裂しない、戦後労働運動を乗り越えたいと真正面から訴えたのです。「これだけ解雇が出た。それでもやる意味はある。そんなことで僕らは揺るがない。腹を決めてくれ。この嵐を見てくれ。一波やったはいいけれど、この嵐を指をくわえてみているのか。そうしたら一波やったストライキの意味がなくなる。団結が崩れる。問題は、民営化になった時に、僕らが団結を守って乗り込んで、新しい闘いを始めることなんだ。解雇者を絶対守る決意を固めよう」と。労働者がその気になればいいんです。泥沼じゃない。そういう決断がすごく大事だったと思っています。そういうことを乗り越えていった時に、総評的労働運動の限界を越えられる。そういう闘いをやってきた。
 団結を守り抜きました。それがなぜできたのかは、これまで労働運動の常識のように言われていた「要求で団結」とは全く違う労働運動の考え方を持ったからです。労働者は要求でしか団結できない存在じゃない。そんなみじめなもんじゃない。もちろん要求は大事です。だけど自分たちの労働組合に命を懸けられるじゃないか。そういうことを本当に役員活動家だけじゃなく、大衆的に議論してきたことが大きかったと思います。
 それと、4万人になったとはいえ国労が総崩れするのを、僕らのストライキで食い止めたと思っています。国労は1986年に千葉で全国大会をやり、大胆な妥協方針を決めるんです。大胆な妥協は決めるが、現実に発動する時にはもう一回機関を開くと決めた。その年9月に静岡県修善寺で大会を開いた。大会代議員は同じです。しかしわずかの間に現場の怒りは変わった。大胆な妥協路線をみんなの怒りの声で否決して新しい執行部ができた。先の闘争方針は出なかったのですが、これは画期的なことだと思います。これがなかったら1047名解雇撤回闘争は生まれなかったのではないでしょうか。
 動労千葉のストライキが、国鉄労働運動が全部瓦解してしまうことを跳ね返して、JR体制下での闘いを生み出したと言っていいのかなと思います。
 動労千葉自身ももうひとつ飛躍することが出来ました。闘争の後、動労千葉が全国に羽ばたこうと言って、全国労組交流センターの結成を呼び掛けたり、三労組の11月労働者集会の運動を呼びかけたり、国際連帯を呼びかけたりしました。国鉄分割・民営化の経験がなかったら、役員、活動家だけでやるのは簡単ですが、組合員全体がこういう運動をやろうとはならなかった。国鉄分割・民営化が日本の労働運動を解体する攻撃である以上、どんなに小さくても僕ら自身がもう一回闘う労働運動の芽をつくらなかったら、国鉄分割・民営化を乗り越えられないと思ったから、企業の壁を乗り越えて一歩踏み出したのです。組合員全体の合意で踏み出した。そういう大きな意味を持っていたかなと思いました。
 というわけで動労千葉は団結を守ったままJR体制に乗り込みました。40人解雇になって、絶対に守らなければいけない。だから財政基盤を確立するために必死になってやった。40人であらゆることをやった。本部に誰が残るのか議論した。運動なんかできなくても全部働きに出ると腹を決めよう。解雇者がちゃんと生活できていることが、残った人たちが団結を守る道だと。で、体力のある若手だけは数人残ったわけです。夜8時まで組合運動をやったら、8時から朝5時までセブンイレブンの弁当運びとか働きに行った。でもそうやって頑張っていることを組合員が見てくれるのが大事なんだよね。社宅を回って生協をやったり、物販や支援基金もお願いした。そこまで本気になった時に団結は守れる。うまくいかなくても、真剣になったら労働者は絶対についてくる。だから労働組合の団結というのは、運動方針だけではないんです。人生かけて団結する。そうじゃなかったら分割・民営化は乗り切れなかった。だから今でも何があったって微動だにしない、ぶれない。
 財政基盤ができるまでは10年くらいかかった。ストライキで解雇になった事案の裁判で、和解ですが解雇を一旦全部撤回して勝ったのです。じゃあ解雇者の働ける場をつくろうとホテルを造った。労働者が本気になったらなんでもできる。そういう団結が必要と思います。

※解雇撤回闘争と職場闘争

 JRになってからの闘いは、二つの柱があったと思います。 解雇撤回闘争と、職場の闘いをどう一から作り直すのか。
 職場闘争は、28人首になっているし、清算事業団送りの首を併せて40人。満身創痍です。やっぱりストライキをやったら首になるというのは頭から離れない。民間だからスト権を獲得したけれど、強制配転されて、駅の売店などにいる。そういう一人からストライキに入れていった。いきなり本線のストライキはできなかった。100人くらいの配転者の活動家がいる。長期波状ストライキで、今日は千葉駅の売店、明日は亀戸の売店という闘争をやりました。
 1988年暮れ、東中野駅で事故が起きる。僕らと一緒に働いていた仲間が事故で命を落とし、乗客も一人命を落とした。その1年後を期して、本線運転士のストライキができるようになった。89年暮れにストライキをやった。そういう形で職場の闘争を回復していった。
 それと解雇撤回闘争です。1047名闘争は、民営化が強行され国鉄清算事業団に入れられて、3年間雇用対策期限が終わったら最終的に首なんです。自主退職を拒否して首になっても闘うと決意したのが1047名だった。大闘争になります。
 国労は3年経って全部を終わらせようとした。社会党の田辺副委員長の広域採用を行って復帰して、すぐ退職という和解案が出た。90年3月です。動労千葉はストライキを構えていたのですが、和解案をぶっ飛ばさなければいけないと、ストライキを構えていた始発よりも半日前倒して突然ストライキに入った。首都圏は大混乱。千葉駅とか津田沼でうちの運転士が降りてしまう。これで和解案がなくなった。これは2200万円の損害賠償、違法ストライキだと。しかし、この闘争があったから、1047名の自主退職を拒否して解雇になって闘いを継続する仲間が生まれた。分割・民営化を闘った鍛えられた1000名の戦後最大の争議団です。
 「1047名の争議団は日本の戦後労働運動の蓄積が生み出した、本当に素晴らしい精華だ」と中野さんは言いました。「国労は1000名の鍛えられた専従者を持つ日本最強の組合になった。これが全国に配置されて闘いを始めたら、日本の解体された総評や労働運動を甦らせる力に絶対なる」と訴えたのです。だけど国労本部は全く違って「1000名はお荷物だ」と。国労本体からは全く別に切り離して組織すると。自活して生活するだけ、あとは裁判をやるだけだと。これをめぐってその後ずっと論争が起きるわけです。国労がやらせたのは、延々と何年も交代で国会前にただ座り込んでいるだけとか。あとは政府自民党と話して政治決着。全面一括解決要求で、国鉄時代のスト権ストの202億円の損害賠償事件から職場の不当労働行為から解雇まで、全部全面一括と。202億の損害賠償を降ろしてくれれば解雇撤回闘争は矛を収めると。そして国鉄改革法を承認、JRの発展に寄与すると態度表明し、JRに法的責任がないと国労大会決定する。それに従わない闘争団がいると自民党に言われて、闘争団を統制処分し、生活援助金を止める。臨時大会を開けとやられる。闘争団や国労の仲間が「ふざけるな」と本部役員に抗議したら、警察に電話して逮捕させた。これが国労5・27臨大闘争弾圧です。
最終的に2010年政治決着という形で、金銭だけで終わりにすることが起きた。
 僕らが言ったのは、国鉄分割・民営化の意味、その後の1047名の闘争団が人生をかけて闘うと決断した意味、労働組合の役員はこの意味を殺すことじゃなくて活かすことだ。活かしたら素晴らしいものが生まれる。僕らは激しくこの政治決着路線とは対立した。そんなことをやっていたら日本の労働者が胸を張って闘争できる時代は絶対に来ないじゃないですか。
 そういう労働運動の路線をめぐる対立を経て、今に至っているわけです。その持つ意味も、事態をどう見るのかが本当に大事です。現場の労働者を信頼しろということは一般的な意味じゃない。決意している労働者がいる時に、これを活かさなければいけない。そういうことが動労千葉が歩んできた道です。
 僕らは、国労が1047名解雇撤回闘争の旗を降ろした2010年4・9政治決着に際して、多くの呼びかけ人の方々の協力を得て国鉄闘争全国運動を立ち上げました。この闘いの成果があって動労千葉の不採用事件が「民営化にあたって不当に採用差別という形で解雇された。その採用、不採用の基準そのものが不当労働行為意志に基づいて策定されていた」という最高裁決定を勝ちとりました。動労千葉が出来たのだから、国労が出来なかったはずがない。動労千葉だけでなく国労がこういう形で構えていたら、今の労働運動の様相は一変したかもわからない。この攻撃は立ち向かえない攻撃ではなかった。

5.JR外注化阻止・非正規職撤廃闘争

 もう一つ、JRにおける重大な闘いが始まりました。JR外注化阻止、非正規職撤廃闘争です。分割・民営化の後、情勢の新たな大転換が起きます。これは民営化の結果です。しかし、単なる延長線上ではなく一つの大転換が起きる。2000年を前後する過程です。日本経団連が「新時代の日本的経営」という報告書を提出し、労働者の9割を非正規職化するという雇用破壊報告書です。
 1999年と2004年に国鉄分割・民営化と一体で制定された派遣法の大改悪が行われ、製造業も含めて派遣の原則解禁が行われます。労基法をつぶす扉が開け放たれたとなる。
 これは職場を一変させた。同じ2000年に各企業会計に国際会計基準が適用されるようになる。JRは本当に一変した。企業単体で決算するのではなく連結決算しなさいということです。連結決算で黒字か赤字か。子会社を作れということです。賃金の安い子会社に全部外注化して移す、外注化の扉が開け放たれる。さらに、退職金会計を全額負債として企業会計に計上しろと。そうなると退職金が必要のない非正規に変える。資産に対してどれだけ利益が上がっているか、株価に対してどれだけ利益が上がっているか、全部の数値を明らかにしろと。そうしたら現場のことではなく、株価優先になる。職場が一変した。
 同じ年に年金制度が改悪され60歳で年金が満額でなくなった。二つセットになってやられた。60歳以上雇用を延長しなければいけない。憲法上そうなわけです。企業側はこれを徹底的に利用して、「雇用を延長する。外注化して非正規職として延長する」と。だから全部業務を外注化すると加速がかかった。
 JRが踏み出したのが2000年の過程で、全社会で業務を全部外注化して、労働者ごと外注会社に追い落としていくことが始まった。
 JRはシニア制度という名前で1999年に提案しました。「年金が満額出ない60歳以上の雇用機会を提供しましょう」という提案です。その代わり高齢者の雇用の場を確保するために、保線、電力、駅、信号通信、車両検修などの業務を外注化してきます。外注先で17~18万円程度の非正規として雇用を確保するということが提案された。しかもその協定の中に、「労使が業務委託を深度化し積極的に推進する」という一項目を設けて、これを認めた組合に所属する者だけ60歳以上再雇用する。卑劣だよね。これは東労組が呑み、国労もみんな呑んだ。だから組合がその協定に基づいて外注化を推進している。僕らはこれはさすがに呑めないと思った。何のために国鉄分割・民営化に首かけて闘ったのか。会社が一方的に強行する。
 だけどこれを決断した後は大変でした。つまり協定がない組合に所属している者は60歳でクビになっていく。50人からの退職者が出る過程で、本当に真剣に話した。「これは子供や孫の世代に非正規しかいない社会を残すことになる。組合としてはできないんだ」と。結果として33人が再雇用されずに首になっていった。労働委員会に申し立てて闘った。当初は、「自分はまだ子供が小さい」と言って、17人が60歳になって涙を流しながら脱退し再雇用に行った。
 だけどここを避けずに本気になって議論したことが後になって決定的な意味を持ったのです。その代わり組合は必死になって「俺たちの組合員を雇ってくれないか」といろんなところを歩き回って雇用先を探した。そういう方針を出す以上、責任がある。簡単に見つかりはしない。そういうのは組合員は見てくれているから、「わかっているよ。俺はこんなことで自分の顔に泥なんかぬれないから頑張るよ」と言ってくれたのが多かったのです。この議論を職場でみんなが聞いているわけです。中には喧嘩になるけれど、聞いている。外注化とは何なのかということを、組合員は実感をもって理解してくれた。これだけは認めちゃいけないんだと。
 これが2000年から5年間続いたんです。5年間続いて、高齢法という法律が変わって、全体の労使協定が整わない場合は、就業規則で雇用延長しなさいとなったのです。動労千葉だけでしたが、協定が整っていなかったから外注化を推進する協定ではなくて、就業規則に盛り込まざるを得なくなった。就業規則には労使は外注化を推進するなんて書けない。だから5年間頑張りぬいて粉砕した。
 この過程はうちの組合員、退職者と真剣になって議論しただけでなくて、他労組の退職者がいるわけです。そこまで、就職するなということはもちろんできないけれど、外注化の対象になっている検査・修繕職場には絶対希望しないでくれとみんなオルグして、5年間、東労組の革マル的な奴以外は全員オルグしきったんです。だから12年間、千葉では外注化が止まった。2012年まで手がつかなかった。千葉の検査・修繕職場が止まるから、全国が進めるわけにはいかないから全体を止めた。保線や駅、その他は全部進んだ。だから抵抗すれば止められる。
 非正規職という問題は社会問題です。ひどい労働条件、未来も展望できない、生きていけない現実にはみんな声をあげます。だけど労働者が2000万人も非正規化されていった過程がある。黙って非正規になったわけではない。非正規化に対する闘いはどこでも聞いたことがない。非正規になっていく過程に闘わずして、結果がひどいというだけでは通用しない。僕らは自分らの外注化反対闘争をやってみて、初めて気づいた。僕らの闘いは非正規化攻撃の過程に対して非妥協的に立ち向かっている。これを全国各地でやっていたら、2千万人の非正規になっていなかったじゃないかと。調べてみたらみんな組合が呑んでいる。だから今の非正規問題は組合の犯罪行為です。仕方がない現実と呑んでいる。
 逆にこの闘争の中で動労千葉に加入してくれた仲間たちが20数人。その後、CTSという外注会社から加入してくれた組合員が15人。規模は小さいですが新しいものが生まれている。
 これも闘って初めて僕らは気が付かされたんだけど、JRで働く正規の労働者とその下請けで働く労働条件がこんなに違う仲間たちが団結しなければいけない。口で言うのは簡単だけど、現実問題はそんな簡単じゃない。どうしたら団結できるのかというきっかけがつかめたような気がする。徹底して外注化、非正規化させない闘いをやりぬけば、立場を超えて団結できる。いろんな展望を切り開いている闘いが外注化阻止闘争です。
 そのうえで、僕らがやってきた闘いで、よかったと思うことが3つぐらいあります。(略)

6.安倍政権のもとでの情勢の重大な転換

 安倍政権の下で戦争と民営化ということが現実化しています。日本の労働運動の歴史を見ていても、戦争に反対するという闘いと結合しないで労働運動が高揚した歴史はありません。だからこの戦争だけは絶対止めなければいけないと訴えること。内に向かっては社会丸ごと民営化するということが今もう一度始まろうとしている。分割・民営化から30年で、生み出されたのは貧困と格差と非正規だけだった。教育の崩壊、医療の崩壊、社会保障の崩壊だけだった。人が人として生きていけない現実だった。これを止めていく。この二つの柱を訴えて、闘いをしなければいけないと思います。
 戦争を生み出そうとしているのはトランプであり安倍政権じゃないかと。安倍政権を倒すこと、絶対この戦争はさせないという決意を鮮明にさせて、アメリカの労働者にも、韓国の労働者にも、北朝鮮で苦しんでいる労働者とも連帯して闘おうと呼びかけること、こういうあり方がもう一回労働組合再生にとって、絶対大事な気がします。
 民営化は社会が総崩れになる。北海道はあの現状です。大阪の地下鉄も民営化攻撃です。民営化は間違っていたと僕らが声をあげて広げたら、社会の空気は変わってくる。韓国みたいに民営化なんてことはやらせてはいけないという声が初めて動き出す。戦争と民営化に闘う。まずは声をあげていきたい。