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動労総連合・新潟を結成してよかった!― 国鉄新潟動力車労働組合の座談会

月刊『労働運動』34頁(0307号02/08)(2015/10/01)


動労総連合・新潟を結成してよかった!
― 国鉄新潟動力車労働組合の座談会

【 参加者 】

星野文男さん(委員長)
杉野 彰さん(書記長)
阿部啓輔さん(執行委員)
坂場信雄さん(特別執行委員)
佐藤 修さん(組合員)
牧絵孝栄さん(書記)
(以下、敬称略)

―職場・役職を教えて下さい。

星野 動労総連合・新潟の委員長です。42年間新潟駅所属で、国鉄時代は客車の入れ換え、民営化以降15年くらい本来業務を外されて窓際族にされ改札業務の応援や無人駅改札でした。最後8年くらい本務の踏切で仕事をしました。60歳定年で関連会社にエルダー出向になり、飲料やビールなどを駅内のキヨスク売店に運ぶ仕事をしています。鉄労(鉄道労働組合。国鉄新潟闘争後、当局のテコ入れで結成した第2組合)に1年、国労に44年いました。
杉野 動労総連合・新潟の書記長です。私はJR貨物に就職しました。東新潟機関区という職場で、機関車の検査・点検整備関係の仕事です。就職直後はJR総連・日貨労に1年、その後国労に加入し21年いました。

佐藤 JR東日本テクノロジー(JRTM)という会社で働いています。仕事は、鉄道車両の製造、現場は部品製造の江南工場です。
 2008年に新潟交通機械という会社に入って、その会社が二度の会社再編を経て、その過程で組合も解散し、JRTMという会社になりました。最初の1年間は新津車両製作所で内装の仕事でしたが、今は江南工場に移って今年で8年目です。

坂場 動労総連合・新潟の特別執行委員です。国鉄には1961年に保線区に入りました。当時の新潟は鉄労でなければ職員になれない時代でした。ずっと鉄労にいたのですが、車掌として新津車掌区から新潟車掌区へ転勤し、40歳過ぎて国労に加入しました。鉄労王国で合理化には賛成、当局の教育で労働者をいいように操作していることに気付き、国労に加入したのです。新潟車掌区は400人くらいの職場で、多数派は鉄労でしたが、国労も1割くらいいました。星野さんや仲間から誘われて狭山闘争や三里塚闘争に関わって、正しいことに確信を持ちました。分割・民営化過程で脱退者が出て、大奮闘したのですが最終的には国労は9人に減りました。その後、被解雇者を見捨てるという4党合意があり国労の姿は変わったと、動労千葉を支援する会で、会の新潟代表を引き受けて闘ってきました。議会のおしゃべり小屋では世の中は変わらない、変えるのは職場の力ですよ。退職して16年、76歳です。

阿部 動労総連合・新潟の執行委員です。2004年にJR貨物を定年退職しました。現役時代は貨物のコンテナ輸送の仕事をしていました。私も最初の6年は鉄労でした。国鉄新潟闘争の影響で鉄労に入らないと採用されない時代でした。1971年、26歳で国労に加入しました。背景には70年安保闘争がありました。その頃、私は国分寺の鉄道学園にいて、実は管理職の道を進んでいたのですが、都内の
デモに個人で参加して時代に関わってきました。70年直後はマル生攻撃で組合が激しい攻撃を受けていました。71年に鉄道学園を終えて、新潟に戻った時に一労働者として生きていこうと考え国労に加入しました。当局は非常にびっくりしたみたいです。鉄労王国ですから国労に入るのはそれなりの決断がいりました。国労で共産党や社会党に誘われましたが、星野さんが新潟駅で頑張っていて、星野さんたちの闘いが正しいと確信しました。
 自分として大きかったのは、78年の配転をめぐる闘いです。配転は国労から当局に引き戻す攻撃だと感じて、絶対に従えないと配転拒否の闘いをしました。配転命令を拒否して仮処分で勝ちました。支社の広報課課員から、只見線の入広瀬駅への強制配転だったのですが、仮処分で勝って支社に戻りました。本訴は負けましたが、改めて腹を固めて一労働者として闘っていくと決断しました。クビという話もあったようですが、減給10か月10分の1という処分になり、その発令と同時に貨物の沼垂駅に配転になり、そこが私の貨物の仕事のスタートでした。分割・民営化前です。常に少数派で、国労共闘でした。共産党や社民党、革マル派の組合支配については欺瞞的なものを感じていましたから、正しいところを貫いてよかったと思っています。
 退職前後に、新潟で動労千葉を支援する会ができた時は自分も加わりました。国労が変質していく中で、2010年4・9和解があり国鉄闘争全国運動ができ、新潟の事務局をやってきました。動労総連合・新潟の結成で、支援ではなく当該になりました。転換と飛躍をかけて闘っていきたいと思います。

牧絵 私は動労総連合・新潟の書記をやることになりました。

※自分と格闘しながら結成

―結成の経緯とその後の過程を話してください。

星野 国労共闘の会議で動労総連合建設が話題になって喧々囂々、1年間くらい議論してきました。新潟でどうしていくのか、国労新潟は少数派で差別を承知してきた国労組合員なので、それを見捨てていくのかという葛藤もあり、大変に悩んだ時期がありました。
 一番大きかったのは、秋田闘争団の小玉忠憲さんが動労水戸支援共闘を立ち上げる代表呼びかけ人になる話を聞いたことです。国労の被解雇者が動労水戸支援共闘結成を呼びかけるというのは、結構感じるものがあって、動労総連合・新潟を立ち上げようと決断をしました。
 新潟でどうやって立ち上げるのか。国労の仲間、関連の仲間、青年を組織することだと思いました。動労総連合という私たちの組合を立ち上げる場合は、OBも戦力になるし、どういう組織形態でどう立ち上げるかを考えてきました。6月に新潟の労働学校で動労総連合を結成しようと講演する機会があって、そこで全体像を提起しました。
 そういう格闘をやってきた中で、小玉さんとも議論しました。今の時代にどう自分が階級として役に立てるのかというのが、問題意識として一番深いところでした。やって本当によかったと思います。国労の組合員が「動労」を名乗るというのは、新潟は動労革マルが強かったから、国労組合員にとって動労なんて目の敵、動労という名前だけで拒絶です。それでも仲間との格闘を経て、今の時代に非正規職労働者、JRグループ全体の労働者を対象にした労働組合を立ち上げることが大事だと思いました。国労の口先だけの単一体ではなく、本当の意味での産業別の労働組合として発展していけるのではないかと立ち上げました。

―国労へ脱退届を出した過程についても話して下さい。

星野 6月20日、国労の組織拡大会議があって、そこで公然と動労総連合をつくることを宣言しました。その後、緊急支部執行委員会があり、私は決断と動労総連合の発展の可能性、展望を全面的に展開しようと思ってレジュメを準備して10分くらい演説をぶちました。それで20分くらい議論したのですが、「けじめをつけてやってもらいたい」という意見だけでした。それで7月22日の執行委員会で脱退通知を出してけじめをつけました。国労組合員には、今でも後ろ髪を引かれる思いがありますが、きちんと修復をしようと努力しているところです。

杉野 動労総連合の全国化方針が出てきた時は、乱暴な言い回しかもしれませんが、まるで私に「自爆テロをやれ」というのかと思いました。それでなくても国労新潟でも職場でも、ほとんど浮いている状態で、さらに浮いてしまうことをやれと言うのかと思いました。
 この方針を冷静に見られるようになったのは、動労千葉や動労水戸の青年たちが闘っている姿でした。それと対照的に国労本部、社民党と共産党が、数が多くないとはいえ国労にいる平成採用の組合員に対して何もしていない。非正規の組合員が雇い止めになったら何もできていない。根幹にあるのは2010年の屈服的和解だった。今のままの国労でいいのかということが私の中に渦巻いて出てきたのです。
 「共に闘う国労の会」会報に私が貨物会社の件で書いた文章の中に「動労総連合を建設しよう」という言葉があり、地本役員が問題にして追及してきました。役員は、私が動労総連合結成の趣旨に賛成していることを問題にしても、私が貨物会社批判をしていることについては何もとりあげなかった。役員は揚げ足取りだけで、会社とやり合う気迫はなくなってしまったと気持ちが冷めていきました。
 今まで親身になって面倒を見てくれた先輩が、「お前のやっていることは間違っている」と激しく言ってきたことには愕然としました。しかし、闘いが激しくなるとこうなっていく、5~10年先に起こることが今起きたのだと捉えています。それなら突き進むしかないと妙に冷静になった自分がいたんです。だったらとことんまでいってやろうと決めたんです。

佐藤 私の場合は、組合結成について二つあります。
 一つは、新潟交通機械という会社に組合があったのですが、会社再編で解散しました。2012年3月11日です。解散大会をやって、もう終わりだからと組合のありったけの金を使って豪華な飲み会をして、会社の幹部を呼んだのです。社長が来ました。その社長は、今のJRTMの社長です。社長は会社解散に関して「こういうことは、ごく自然な当然な流れなんだ」と言ったんです。今でもよく覚えていますが、頭にきたというより悔しいですよね。組合の金を全部使った豪華な飲み会での会社幹部の発言です。組合はJR東労組傘下でした。
 もう一つは、ここ1~2年の職場の動きです。昨年、新津車両製作所の分社化でいろんな矛盾が出てきて、すごく怒りが高まってきた。製作所前で定期的にビラまきをしていますが、受け取りがぐんとよくなりました。そして「このビラに書いてある通りだ」と言われたりしました。それだけではなく「ビラをまくのもいいけれど、残業が多くて死にそうだ。なんとかしてくれないか」と言われました。「あっそうか、なんとかしなくてはいけない」と思いました。あるいは契約社員の人が立ち話で「うちの職場には組合がないしね」と言ってきたこともありました。大きな転機になったのは、今年4月です。65歳で今年7月に退職された方で数年来の付き合いがあった方が、職場で後輩へのパワハラと安全無視に激怒して、ビラに自分の名前を出して「許せない」という文章を寄せてくれたんです。その文章の最後に、労働組合が必要だと書いてくれたんです。私たちの間で話して、今までは「闘う労働組合をつくろう」という抽象的な内容だったのですが、新たに「私たちと一緒に労働組合を立ち上げましょう」とよびかけました。以来、ずっと呼びかけるビラです。
 国労に関しては、去年3月に新津車両製作所にデモをかけました。あの動きはもっと大きくできればよかったなと思っています。まとめて獲得していくためにも組合を結成したのです。

坂場 国労組合員だったのですが、国労本部は4・9和解で闘争団を切り捨てた。動労千葉との交流、阿部さんや星野さんとの義理人情を育てたいのと、国労本部の方針に幻滅を感じて、新しい労働組合をつくらなければという意識になったのがきっかけです。動労千葉争議団の高石正博さんや中村仁さんとは、物資販売要請で県内の組合を一緒に何度も回りました。彼らは本当に明るい。少数派の国労新潟と少数派でも闘いを蓄積してきた動労千葉の違いがある。闘う時は闘うが、平常も明るい。闘いを苦としていない、あっけらかんとしている。そういう組合になりたいですね。

阿部 私は国労をやめて11年ですから、現役の人たちの国労に対する未練とかこだわりはほとんどなかったです。ただ、どんな反動的な労働組合でも、執行部に恥をかかせる反対派の原則的な闘いは絶対に必要だとずっと思ってきました。秋田の小玉さんや星野さん、杉野さんなどの苦闘がある中で、動労総連合をつくった時にどう納得できる論理をつくれるかということが、私としては一番気になっていた。星野さんが戦後労働運動全体を総括する中で、国労運動ではなくて、全体の労働者階級の立場に立った労働組合が必要だという総括を出し、その地平が動労総連合・新潟という形で結実したと出してくれて、非常にすっきりした。
 もう一つ、県内は圧倒的に国労主導の1047名闘争でしたが、彼らは国際情勢、国内情勢とからんで国鉄闘争を位置づけたことはない。しかし、動労千葉は自分たちの闘いを新自由主義との闘いと位置づけて、支援する労組にきちんと訴えている。支援する側にとっては動労千葉の運動はわかりやすい。動労千葉の物販の取り組みや解雇撤回10万筆署名が集まったりして、長年の関係が形成されてきた成果があります。動労総連合結成については、4・9和解を「よし」とする勢力との対立はありますが、この5年間の闘いの中で、完全に打ち破ったと感じています。そして、ついに動労千葉の解雇撤回裁判6・30最高裁決定で、「不採用基準の策定が不当労働行為だった」と確定させた。結成記念集会の組織化でも4・9和解にOKを出した人たちには「ついに勝ち取った。その地平で新しい組合をつくります」と言って、非常にやりがいがある。退職しても組合員になれるという動労総連合・新潟です。個々の力を分散させないで結集していく組合としてすごいなと思っています。その組合で当該としてやれることをうれしく思っています。

※仲間が「仕事がやりやすくなったと」言ってくれた

―結成後の職場の動きや同僚の反応とかあればお願いします。

星野 私が国鉄新潟闘争を継承することにこだわっているのは、日本の労働運動や新しい労働者党をつくろうという源流もそこにあると思っているからです。鉄労王国になったり、動労革マルが強権支配をした中で労働者が闘ってきて、その地に動労総連合をつくる意味の大きさが、国鉄新潟闘争にこだわっている一番大きなことでした。そして、動労千葉が反合理化・運転保安闘争路線を確立し、動労水戸が被曝労働拒否を運動路線として確立してきている。そういう路線と運動をつくりだした動労総連合に結集することが国鉄新潟闘争を継承することだと思います。
 職場の反応は、キヨスクのOB3人とJROB1人とエルダーの私の5人で話し、みんなから「よくやるね」と感心して言われた。年休もとらせない職場なので、そのことも含めて申し入れしたので、会社は非常に四苦八苦しています。
 国労の組合員の反応は半々です。頑張ってますねという反応や、ビラも読ませてもらいましたという反応。他方、よそを向いて歩く人もいる。
 地域一般の女性に手伝ってもらって、駅ビルなどにチラシを50枚くらいまきました。主に販売員です。若い人たちは、労働組合さえ知らない。「泣き寝入りしないように労働組合をつくりました」とチラシを渡したら反応はよかったです。

杉野 国労の時代から私のことは「近づくと危ない」と他労組や会社から言われていた。動労総連合を結成した後は、国労時代と違って、露骨にあいさつをしない人間はいなくなったと思います。激しい反応があったのは国労の役員で、脱退前後に「満足に闘ってもいないだろう」と言ってきたり、重箱の隅をつつくように私を職場で追及したこともありました。激しい言い合いになりました。青年たちの
いる前で、「左」の姿を振る舞っている人の化けの皮をはがしたと思う。私も、国労に居続けて死んだような格好でこのまま生きていたくなかったという思いはありました。

佐藤 今回、新たに組合員になってくれた人は、私と同じ職場の人です。職場は滅茶苦茶で、パワハラもすごい職場でした。彼はトラック運転手で、溶接したり板金したものをトラックで車両製作所へ納品する業務です。効率化を狙った課長が、トラックにGPSをつけて監視していた。許せないです。私が組合結成通知を出した2~3日後に、GPSがはずれるんです。 組合結成通知で会社の姿勢が激変しました。彼は「すごいね。GPSがはずれたから本当に気が楽になって運転できるよ」と言ったその一言が本当にうれしかった。彼が「仕事がやりやすくなった」と言ってくれたこと、組合が彼に必要なものになったことが本当にうれしかった。組織拡大というと堅苦しいですが、一緒に働いている人が声をあげられるというのがうれしいです。
 団交要求書を出しましたが、内容は豊富で、相当な人が現場のことを教えてくれないと書けない。信頼して愚痴も含めて教えてくれる。現場で「許せないよね」と話していたことがあってはじめて団交要求書に出せた。団交要求書に書きましたよと後で話すと「ああ、そうですか」と言ってくれた人もいて、よかったと思いました。

阿部 門前とか労組オルグでの反応ですが、期待が大きいです。JR職場の前でチラシを配っていたら、東労組の50代の組合員が「本当に組合つくったの。すごいね」という好意的な反応がありました。結成集会の案内で県内の組合を回ったのですが、高教組の分会から「本当におめでとうございます。期待しています」というメッセージと賛同金5千円が届きました。「この時代、組合解散とか消滅とか組合は駄目だというイメージが強い中で、元気をもらうような組合結成ですばらしいです」といったメッセージもいただいています。国労以外の組合ではおおむね期待が強いと感じています。国労でもつくる前とつくった後の反応は違います。JRの社員で明日の集会にも参加してくれる人もいる。すごい注目です。

坂場 日教組に行ったが、ストライキのできる組合をつくったと話したら、高校の30代の女性分会長が「すばらしいね」と驚いていた。日教組の小中学校の事務所は元気がない。動労総連合を作っていけば拡大の要素はある。地域の労働組合の結集軸になっていくと思う。

※職場、地域で期待大きい

―最後になんでも思っていることを話してください。

星野 ずっしりと肩の荷が重くなりました。
杉野 10年前から職場に行くのが地獄に行くような日々でした。今の時代は、ゼロか100かのどちらかの選択肢しかない時代にいる。そこに自分が立たされている。自覚して日々闘っていく必要があると思います。

佐藤 自分の職場に根を張ることだと思います。引っこ抜こうとしても絶対抜けない団結の根を張り巡らせていきたい。同僚の仕事をちゃんと理解して、心から敬意をもつことがすべての土台です。自分の仕事をわかってくれない人は何を言ってもだめですよね。やはりちゃんとわかってくれれば話になる。そういう人間関係が第一だと思います。無理せず、マイペースでやります。

坂場 事務所に出入りしても非常に若返った。青年層ががんばっていて活気のある事務所になってきた。青年層には何でも言ってもらいたい。

阿部 今年の動労千葉を支援する会の総会で、動労千葉の関さんから「おめでとう。大変ですけどね」と言われました。確かに組合を立ち上げた以上、逃げられないんです。ちゃんとやらなくてはいけない。「新しい時代には新しい皮袋」という言葉がありますけれど、そういうものとして関わっていけることが幸せだなと思っています。

牧絵 動労総連合・新潟を決断するまでは大変でしたけれど、決断して非常によかったと日々感じています。ビラをまいても、オルグしても感じます。期待の声、注目がすごい。特に、職場で動労総連合が話題になっています。今回の要求書で、非正規職を撤廃せよと出しました。こんな要求を出した組合はないです。非正規職撤廃を真っ向から主張していることが大きいと思います。あと、青年がビラをもらいに来ました。この時代に結成して、圧倒的な期待と注目を集めていると感じます。全国の仲間からも「すごい決断だ」と激励も受けました。それらのことは、結成集会へのメッセージが県内50、県外50にあらわれています。

阿部 9月6日に徳島の星野さん奪還闘争に動労総連合・新潟の旗を持って行ったら、「いやーこの旗はまぶしいですよね」と喜んでくれた仲間が何人もいました。

―9・13国会前で動労総連合が次々に登壇し、戦争法案をストライキで粉砕すると発言したことに展望を感じました。今日はありがとうございました。