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戦後労働運動史の中から 第7回

月刊『労働運動』26頁(0286号10面01)(2014/01/01)


 

戦後労働運動史の中から 第7回
 

 

細谷松太と高野実(1)

 1950年代から70年代、日本労働運動の主役であった総評(日本労働組合総評議会)の結成は1950年のことです。
 敗戦後の労働運動では左派の全日本産業別労働組合会議(産別会議)と右派の日本労働組合総同盟(総同盟)が対立しましたが、産別会議は共産党の独善的支配に反発する民主化同盟(民同)が内部に生まれ、権力・資本側の攻撃もあって、1949年にはほぼ自壊しました。総同盟は1948年に左派が主導権を握り、分裂へ向かいます。このなかで産別会議民同派と総同盟の多数が合流し、中立組合をも引きつけて新ナショナル・センター、総評が生まれるのです。
 この過程で主役として働いた人が二人います。産別指導者で民同派の先頭に立った細谷松太と総同盟左派を率いた高野実です。しかし二人とも60年代には目立たない存在になりました。
 細谷は総評結成時の指導方針に異議を唱えて遠ざかり、新産別という小組合に立てこもる。高野は初期総評の事務局長として脚光を浴びましたが、高野時代は1955年に太田薫と岩井章の時代に移ります。この過程で、戦前労働運動の中で自己形成した細谷・高野から戦後派に指導権が移っていったのです。
 細谷松太は1900年生まれ。小学校を出てすぐ労働生活に入る。これは戦前労働者では普通のこと。ガラス工や海員などを転々とするうち、労働運動に加わります。右派組合ですが、そのなかで頭角を現し、26才で関東合同という組合の主事(書記長を当時こう呼んだ)になりました。やがて右派の立場に疑問を感じて左派に移り、今度は非合法で大衆性のない共産党系組合の指導者として苦労します。長期の入獄も経験しました。
 高野実は1901年生まれ。早稲田大学理工学部出身という労働運動活動家には珍しい経歴です。学生運動から労働運動に入り、合法左派の立場(マルクス主義の立場だが、非合法では大衆的労働運動が成り立たないとして、共産党の指導方針には反対)で、権力の抑圧の隙を縫って労働組合組織に尽力。結局1937年、「人民戦線事件」に伴う弾圧で労働運動からの退場を強制されました。
 二人とも戦後労働運動の再出発の中に復帰するのですが、一方は共産党系産別会議、他方は総同盟と、やはり立場は別れました。しかし、二人には共通したものがある。
 ひとつは労働運動は階級的立場を堅持しなければならないという考え。ここから二人には精神の連携があり、産別会議と総同盟左派が接近をはかる(例えば2・1スト前夜)とき、この「細谷・高野ライン」が通路として働きました。
 もうひとつは、労働組合は終始大衆的・自主的、下からの努力によらなければならないという考え。ここには、戦前労働組合の多くが、企業従業員一括といった形でなく、労働者一人ひとりを苦心して獲得すること、彼らの闘う意志を掘り起こし、育てることで形成されたという経験が働いています。(続く)

伊藤 晃 日本近代史研究者
1941年北海道生まれ。『無産政党と労働運動』(社会評論社)『転向と天皇制』(勁草書房)『日本労働組合評議会の歴史』(社会評論社)など著書多数。国鉄闘争全国運動呼びかけ人