月刊労働運動-Home> 戦後労働運動史の中から > | 連載 >

戦後労働運動史の中から 第15回

月刊『労働運動』34頁(0294号10/01)(2014/09/01)

戦後労働運動史の中から 第15回

北陸鉄道の軍事輸送反対ストライキ

 1952年9月、政府は突然、米軍の試射場用地として金沢市に近い漁村内灘村に土地接収を通告しました。同年発効した日米安保条約によれば、米軍への基地提供はいわば日本の義務なのです。現地ではただちに激しい反対闘争が始まりました。無名の貧しいこの村が全国の耳目を集めます。内灘闘争はその後続発する反基地闘争の起点になりました。沖縄でも土地取り上げ反対闘争が始まるころ。
 内灘闘争は日本労働運動史に深く刻みこまれています。それは北陸鉄道(この地域にあった私鉄)労組の功績です。この組合は53年夏、二度にわたり、弾薬輸送拒否のストライキに起ったのです。鉄道という具体的手段をもつ職場が反戦のためにこの行動に出るのは日本でははじめてのこと。これは現地の共闘関係で村民の労働運動への信頼を高めました。のちに三里塚闘争で動労千葉がめざしたのもこの関係です。
 このストライキはもちろん容易なものではなかった。現地に組合の旗を立てるだけでなく、組合員一人ひとりの決意を要するこの行動をなぜ成功させられたのか。ここに全国の労働組合が注目しました。当時、戦争が終わってまだ8年、反戦の気分は労働者には一般的です。しかし朝鮮戦争下、日本の再軍備はすでに始まり、その後現在までに続く「戦争のできる国」への過程が第一歩を踏み出したところ。この流れに抗する労働運動は権力の標的です。「政治ストは違法だ!」北陸鉄道の組合はなぜこれをはねのけられたのか。
 実はこの組合は、地方の小組合ですが、先駆的な職場闘争でかなり注目されていたのです。52年暮に労働協約闘争がありました。ふつう労働協約は、職場の状況・要求を背景としていても、それらを集約して組合指導部が交渉に当たるものでしょう。ところが、北鉄労組はこのとき、協約改訂に当って、その各条項について職場で細かく大衆討議を行ったのです。この中で職場闘争組織が家族までまきこんで作られていった。この闘争を通じて組合は組合員の信頼を得ます。この組合は形式的画一的行動でスケジュールを消化するだけの組合じゃないんだ。
 この組合員たちに指導部は勇気をもって軍事輸送拒否ストライキを提起した。形式的反対だけで実際にタマを運んでいてよいのか。労働運動こそ行動で反戦の中心に立つべきだ。これに応えて大衆討議を繰り返す組合員が、この組合には作られていたのです。その討議の様子は私たちにはわからない。しかし、労働者一人ひとりをとってみれば、あったに違いないためらいを、みなで討論し合うなかで克服していった過程があったに違いない。こうして労働者の心の中の反戦の気分が一つの意志に転化し、それが結集した。ストライキを成功させたのはこの組合のこうした「労働組合らしさ」だったのではないでしょうか。 内灘闘争自体は最後に崩れるが、北陸労組の行動は今の私たちにとって、ただの昔話ではありません。

 ----------------------------
伊藤 晃 日本近代史研究者
1941年北海道生まれ。『無産政党と労働運動』(社会評論社)『転向と天皇制』(勁草書房)『日本労働組合評議会の歴史』(社会評論社)など著書多数。国鉄闘争全国運動呼びかけ人