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戦後労働運動史の中から 炭労の闘争と三池争議(1)

月刊『労働運動』34頁(0308号10/01)(2015/11/01)

戦後労働運動史の中から
炭労の闘争と三池争議(1)

 一九五〇年代末まで、日本産業の最大エネルギー源は石炭でした。石炭業は盛んで、多くの炭鉱に数十万の労働者が働いていました。炭鉱では五〇年代に激しい反合理化闘争が戦われ、それが五九~六〇年、戦後最大の争議といわれた三井三池争議にまで上りつめました。その後、石炭業全体が衰滅に向かい、こんにち日本に炭鉱は一つもありません。この炭鉱労働者が作る日本炭鉱労働組合(炭労)の闘争を三池争議までお話してみましょう。
 五〇年代、エネルギー源の世界的な石油への転換が叫ばれ、石炭業の合理化が始まりました。日本の炭鉱は機械化が遅れて人力依存だから非効率、コスト高、将来は暗いから速やかに合理化しなければならぬ、ということで、効率の悪い中小炭鉱を閉鎖(もちろん労働者は全て解雇)し、見込みのある大炭鉱は機械化による効率化、大幅人員削減を強行する。この「企業整備」が進むのです。
 五三年が大衝突の年になりました。大手各社が人員整理案を出し、希望退職を募集する。炭鉱に見切りをつけてそれに応ずる労働者が多く、結局五万人が戦わずに炭鉱を去るのです。しかし、一つだけ三井鉱山の組合(三池をはじめ九州三つ、北海道三つの炭鉱の組合が、三井炭鉱労働組合連合会、略称三鉱連を作る)は、七千弱の整理案に対して、希望退職阻止に努めました。会社側が指名解雇に踏み切ると、一人の指名解雇も許さない「ゼロのたたかい」を呼号して、三鉱連独走で解雇撤回闘争に入りました。
 戦後の活発な労働運動の中でも、指名解雇通告を受けて、これをはね返した例は少ない。三鉱連にも動揺はあり、九州の二炭鉱は脱落します。しかし、三池と北海道の砂川・芦別・美唄の団結は崩れない。網の目のような職場闘争委員会を作り、炭婦協(炭鉱主婦協議会)と協力した居住ぐるみ(炭鉱労働者は社宅に集住している)で、創意をこらした戦術を巧みに組み合わせて戦いを進めました。解雇通告書をデモで叩きかえす、解雇者の強行就労、部分指名スト、時限スト。鉱内保安のための法を使った順法闘争(減産闘争になる。これは効果があった)は、その後の労働運動にもヒントを与えます。こうして戦うこと一一三日、ついに会社側が折れ、最後まで解雇を拒否した一八〇〇余名の解雇撤回を認めて、争議は輝かしい勝利に終わりました。
 団結して戦えば指名解雇も跳ね返せる。これは貴重な経験でした。しかしその半面、大量の希望退職者がいたことも事実(三池の指名解雇者も闘争途中半数以上が希望退職に転じた)。組合が信頼をつなぎ止められず、個人的解決を止められなかった姿です。それが資本側に余裕を与え、強行策を回避させたとも言えるでしょう。炭労に大きな課題が残ったのです。そして、この中で企業整備そのものは進んだわけだから、それが職場にどう現れるか。ここに職場闘争が重大な意味をもって浮かび上がります。
(次号に続く)
伊藤 晃(日本近代史研究者)