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産別・戦線の闘い第21回 自治体労働者労働者 昨年特別区人事委が賃下げ勧告、労働者の決起で実施を阻止

月刊『労働運動』34頁(0348号06/01)(2019/03/18)


産別・戦線の闘い 第21回 自治体労働者労働者の闘い
 昨年特別区人事委が賃下げ勧告、労働者の決起で実施を阻止

(写真 特区連の賃金闘争について活発に意見交換)

 昨年10月、特別区(東京23区)人事委員会が史上最悪の賃下げ勧告をし、特区連の労働者が決起して実施を阻止しました。
 2月8日都内で行われた「特別区の賃金闘争をめぐる自治体労働者学習会」の提起と討論を掲載します。

●司会 北島一恵(中野区職)
 今日の学習会を計画したのは、昨年の特区連の人事委員会マイナス勧告をめぐる闘争を経て、今後の課題を論議したいからです。平均で1万円、多い人で2万円の人事委員会マイナス勧告が出され、これに皆が怒って阻止しました。その上で昨年の4月から始まった新人事任用制度に変わりはありません。年末には同じ攻撃がかけられる可能性があります。では賃金とは何か、どうやって決まるのかという意見があります。北区職の大谷さんから提起を受け、その後、質疑討論をしたいと思います。

◆提起 大谷京子(北区職)
 北区職の執行委員をやっています。去年の人勧について「こんなものが通ったらどうなるのか」と考えました。

(1)賃金と政治・社会情勢

 1946年、敗戦の翌年に都労連、都職労が結成されました。戦後、労働者が一斉に立ち上がりました。松川・下山・三鷹事件が起きて、公務員の権利を制限する動きがあり、動と反動がせめぎあいました。階級闘争です。
 自治体にはいろんな業務がありましたが、都がやっていた仕事を区に移管したのです。「北友」(北区職労青年部の機関誌)に「都から区への移管を巡って」というのがあり、見てびっくりしました。諮問機関が当時からあり、道州制のような考え方も出されているのです。国は行政を巡りいろんな攻撃をかけていました。大都市東京を東京に任せるのではなく、政府直轄にしようと狙っていたのです。「都に対する国の干渉を考える。事務事業移管が行われるのではないか」と書かれています。区長の公選制が復活したのは1975年です。そういう中で企画・調査・管理の実務を下請けに出すのです。課長の上に部長がいる。北区は23区に先駆けて部制を設けるのです。経費削減、賃金削減といいながら、部課長を増やしています。課長を統括するのが部長で管理専門です。
 1960年に安保闘争がありました。この過程で道州制が狙われていましたが、様々な正規職員化闘争や任用制度改善闘争を現場が闘って、自治を明け渡さなかったのです。

(2)賃金は支配のツール

 以下、資料に即して報告します。(資料の説明)


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(写真 特区連の賃金闘争について資料を見て学習)
【資料1】

▼都から区への事務事業移管をめぐって

※1952年「地方制度調査会」(総理大臣の諮問機関)発足 
・第四次調査会答申(1857年)...現行の府県制度を廃止して、いくつかの県を統合し「地方」をつくり、その「長」は内閣の任命制とする。
※1956年「都政調査会」(都知事の諮問機関)発足
・首都であると同時に世界有数の大都市である東京の政治、行財政制度はどのような仕組みにするのが適当か、1957年に答申...①区長は都知事の任命制②区議会の権限縮小と議員定数の縮小③都から区への事務移管
※政府・財界「大都市東京を都に任せておいては大変なことになる。政府が乗り出すべき」
①東京は単なる大都市ではなく、「首都」であることを強調
②都の自治権を大幅に奪って、都行政を政府直轄の機関で行う
※「地方制度調査会」答申では、都に対する国の干渉の必要性を強調
※「都政調査会」答申では、区の制限自治区的要素を強化して将来は行政区にするため、事務事業を移管して都を身軽にし、企画・調査・管理を都が、実務のみ区に任せる方針
→両者の答申から事務事業移管が行われようとしている。
○1947年区長公選→1952年区長公選制廃止→1975年区長公選制復活

▼部制について

 1964年12月北区議会、22区に先がけて組織条例(部制)成立
 経費削減、定員削減、賃上げ抑制を強制しながら、なぜ、部長、課長、係長を増やすのか
①人事管理の強化、②労働強化、③組合活動の圧迫
 「特別区の行政事務近代化実施の一般的基準案」(都行政部)
 係長は係員5~7人、課長は5人以内の係長、部長は4人以内の課長を指揮監督する......という考えが出されている。監督する仕事は「働いているかどうか」「仕事が遅れていないか」に集中―労働強化をもたらす。(部長は)指揮監督の専門屋。住民サービスよりと上司の方ばかり向くようになる。
(北区職労青年部機関誌「北友」1965年5月号より)

 任用制度の改善闘争。この中に闘いが書かれています。13年間にわたり闘い、70年に「吏・雇・傭員制度」廃止を勝ち取ったのです。

【資料2】

▼任用制度改善闘争

 任用制度問題については、1957年の給料表分断、1960年の等級分断を契機として、13年間にわたる任用制度改善闘争の成果として、1970年に①吏員昇任試験の廃止、②吏・雇・傭員(身分)制度の撤廃、③職名整備、④1職2等級制度の実現等をかちとり、その後も任用制度の改善に努力を続けてきた......(労働局支部50年史より)

 都に働く公務員と言っても、「吏・雇・傭員」制度の基本を色濃く残した職層・任用制度になっていました。採用時から「主事」・「主事補」との差別が設けられていました。それに対して「仕事の内容と責任は同じなのに......」という青年の声を背景に、改善の闘いが取り組まれました。都職労青年部の全都庁への提起を中心に、北支部青年部、そして北支部をはじめ都庁全体の闘いへと発展しました。その結果、「吏・雇・傭員」制度は廃止され、現在の「主事」「副参事」「参事」という職層制度になりました。
(北区職労結成50周年記念誌より)

(写真 特区連ニュース440号より)
【資料3】

 この任用闘争の中で10回ほど大衆的な集会が行われましたが、常に全逓会館や国労会館の会場を埋め尽くした記憶があります。なぜ、このような盛り上がりを見せ「吏・雇・傭員制度」を廃止させたほどの大衆的闘いが組めたのかと言うと、組合員の意識が「主事・主事補の差別をなくせ」という広範な基盤があったことが一つです。職場の4割くらいの人が主事補であり、出勤簿の順番から座席の配列・賃金にいたるまで、広範な差別が存在していたのです。
(「伏流」1984・5・23より)

 職場で吏員(5等級)も雇員(6等級)も同じ仕事をし、総体的に見て、同じ事務量をこなしている。にもかかわらず、給料・名称等に差別をつけられ、身分差別があるのはおかしいではないか。
 何故ありもしない差別がつけられているのか。それは、我々労働者にエリート意識を持たせ、労働者を競争させて、分断して支配しようとする管理者=資本の意図がある。このような差別・矛盾に対して、自己だけが、他の仲間と競争して、5等級になり解決していくのではなしに、労働組合に団結し、解決していこうとする考え方に自分を変えていく思想闘争として、北支部青年部は位置付けた。(北区職労青年部機関誌「北友」1971年5月号より)


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 こうした資料を見て言いたいことは階級意識があったということです。「我々は労働者だ。住民の方を向くんだ」という階級意識があり、こういう先輩の闘いがあって今があるのです。
 賃金は支配のツールです。評価制度は賃金を使って分断支配する攻撃です。賃金の原資はなるべく低く抑えたい。だから評価制度をつくるのです。どうにかしてたくさんあげる人と、削る人を作り、分断する。労組交流センターはいろんな産別が結集している組織です。JRにはすでに賃金表はありません。今は生活給という概念がないのです。秋葉原駅が全部外注化されようとしています。昇給もない。一生のうちに3回しか賃金が上がらない。賃金に差があるので低い方にあわせて賃下げをする。
 実は、私の最初の職場は学校でした。その時は校長、教頭がいて他は皆同じでした。主任手当はつくけれど、手当は皆組合に拠出したのです。今は校長がいて主幹がいて、ピラミッド型の賃金になっています。しかし、特別区はそこまで破壊されていません。本当に賃金はすごい闘争課題だと思います。

(3)2018年特区連確定闘争の総括と今後の課題

 滅茶苦茶な人勧でしたが、実施させずの結果になりました。北区の委員長が言っていたのは「落としどころが無い」ということです。特別区の人は「賃金ミニノート」を皆もっていると思います。社会情勢と経済情勢と給料はリンクしています。ボーナスだけ見てもすごいです。バブル崩壊の後も5か月出ました。1982年の退職手当は給料90か月分ありました。今は47か月分と下がりました。私が入った頃は「人勧完全実施しろ」と要求しました。差額だけでボーナス分くらいあったのです。
 第1次中曽根内閣では、85年プラザ合意から円高になり、労働者から搾り取って乗り切ったのです。
 特区連の方針は、「皆、係長になろう」ということです。特別区は係長以上の人が少ないのです。今回の人勧がなぜこうなったのか。民間の主任や係員と比べると、公務員の方が1万円くらい多いのです。
 本当は、労働組合に団結して闘うというのが方針です。職員の8割くらいが平です。皆が係長になってどうするんですか。私の職場は納税ですが、みな同じ仕事をしています。国は一般職員は少ししかいない。国は管理する仕事が多いからです。私たちの職場に一般職員が多いのは当たり前です。「係長になろう」という方針はおかしい。もう一度階級闘争なんだということをはっきりさせましょう。
 民間準拠といったら民間は本当に酷いです。年功序列はないのです。終身雇用と年功序列をなくしたいのです。民間準拠というのは、公務員の私たちがたくさんもらってはいけないと考えるのでなく、私たちが先頭で民間の賃金を上げなくてはいけないということです。職務職階制にしようとしています。生活給はどこへいったのでしょうか。私たちの賃金は労働力の再生産費です。人勧に甘んずるのではなく、日本の労働者の賃金を引っ張る。大きな政治闘争が闘われている時は賃金も上がっています。政治的な闘いにコミットして闘った時に、賃金は上がるのです。経済が成長して賃金が上がるというような時代はもう二度と来ません。大きな闘争を闘い、違う社会をつくる以外にないと思います。

◆質疑・討論


●司会
 40分余りですごい内容のことが話されました。労働組合の闘いの中で勝ち取ってきたものが壊されてきました。現業にとっては、昇任試験、技能主任―技能長―統括技能長が2007年にできて賃金が下がりました。主事―技能主任―統括技能長などと、賃金が分断されてきたのです。若い人は賃金が安くなって「賃金が安くて生活できない」「子どもが作れない」と言ってやめていく人も出ています。
 人事任用制度改定は以前にもあり、1986年に主任主事制度が導入されました。許せないと人事委への抗議闘争で、この時も相当頑張りました。でも今回の新人事任用制度はするっといったのです。

●A(品川区職)
 84年に私は区職に入りました。次の年に定年制が敷かれました。私が入った時は70代、80代の人が働いていました。主任主事問題は青年部中心に闘いました。8等級が6等級になりました。今までは管理職・統括課長という等級があったのですが、課長、部長とスリムになったのかと思ったら、実は大幅賃下げです。業務職は2007年までは行一横引きで上がっていった。その後はがくっと下がったのです。

●B(東京清掃)
 労働組合、労働運動の役割が大事で、働く労働者の闘いで変えていくのが重要です。自分たち清掃の仕事は2000年に区移管になりました。東京清掃の前身は、関東大震災の死体処理のために臨時で雇ったのが始まりです。東京は4万~5万人の死体を片付けて、その後1年経過して仕事がなくなると解雇通告されました。関東大震災までは職人で働いていた人が清掃の仕事をやっていました。その中に活動家もいて、1年で全員解雇という通告に対して、解雇を撤回させました。雇の庸員として入ったのが始まりです。当時は経済的なゴミのリサイクルがありましたが、資本主義の崩壊のためリサイクルが崩壊したのです。これ以上話すと2時間もかかるのでやめます。天皇代替わりとも関わりますが、睦人が死んだ時、1925年12月24日に準戒厳令状態の中でヒロヒトが天皇になりました。労働組合にかけられる政治は駆け引きそのもので、自分たちは構えなければいけないと思います。

●司会 
 私たちの仕事は上司はいりません。日々雇用でありながらも仕事をして、正規職化を勝ち取ってきたのです。これと賃金は完全にリンクしています。

●C(世田谷区職)
 ヘルパーで、私も現業職です。2007年に業務職給料表が改悪されて、その時の取り組みは大きかったです。しかし、結局は落としどころがありました。現業は中途採用で入る人が多く、私も中途採用です。2007年に賃金表が崩されました。行政事務職員全体に対してもそういう攻撃がかかったのです。現業でも組合をやめる人が多かったです。2018年確定闘争でも組合離れがあるかもと考えました。人事任用制度が導入された時に何とかできなかったかと思います。上がっていくには係長になるしかないのです。自分は現業ですが、まわりの仲間にどういうふうに言ったらいいのかと考えています。

●司会 
 都から区へ事務移管。児童相談所が区に移ってくる。今は研修を行い、33年度から実務のみ区に任せる方針が出ています。

●D(元都校職組) 
 私は学校事務職員でしたが、再任用後に副校長のアシスタントをやっています。副校長が一番忙しいので、倍率1倍でなり手がいない。アシスタントが一人ずつ置かれています。任命権者は都で金を出しています。都労連の賃金闘争に関わってきました。都の方が人事任用制度は先行していて、数年前にやられています。特別区に対する賃下げは都の制度を横引きしてきた攻撃です。東京都が変えた時には1・2級を統合しているので民間と比べると高い。だから賃金を下げるという攻撃をかけてきたのです。都が狙っているのは年功序列をなくすことです。一番大きいのは人事考課制度です。研修制度を含めて、誰が5級なのか誰が3級止まりなのかが分からない。東京の教員の組織率は小中学校の組合の場合は10%くらいです。最終的には労働組合のない職場を狙っています。

●E(江戸川区職)
 昨年の人勧を見てどうしてこうなるのかと思いました。佐藤さんが署名をしてくれと来てくれて、取り組んで人勧が中止になりました。今見聞を広めています。組合離れがあり、もう組合運動はないのかと思ったのですが、聞いてみたらまだこんなに闘う人がたくさんいたんだという感じです。組合幹部は高齢で組合がどうなるのかと心配です。自分がやるというのは無いですが勉強させていただきました。

●F(江戸川区職)
 29年間組合員です。大きな組合にいたこともあれば、少数の組合にいたこともあります。その中で組合というのは闘うものだと思っていました。しかし江戸川区職は「当局の下部」になっている組合の幹部がいて、私としては腹立たしく思っています。組合のアンケートを作成しこれからアンケート調査をやります。アンケートは後から佐藤さんに見てもらいたい。夫婦でも意見は分かれています。自分で組合を作りたいと思います。

●G(区職)
 障害者枠で入ったGといいます。賃金の昇給を止められていました。最初の評価はEでした。そのあと職場が変わりました。わかったことは僕の後に入った女性も成績を下げられていたことです。今回の障害者雇用の問題も偽装です。習志野の障害者がやめさせられ、僕も辞めさせられる攻撃を受けました。女性は憤りがある中で、成績を下げられたと話してくれました。
 僕は1年目は仕事が終わらないから朝早く出勤して仕事をしていましたが、評価はEでした。次の職場では「トイレ以外は席を立つな」と言われました。後ろを通る時に椅子を蹴る女性もいました。1年間何も仕事をさせられない時に五段階で成績が2でした。係長に嫌われるとそういうことになるのです。精神が潰れる寸前までいきました。

●H(東交) 
 92年に交通局に入りました。バブル崩壊の時でした。任用制度は交通局では交通任用系といわれます。2級職は現場の指導者で、3級職が助役です。グループリーダーが主任の時には、皆が助役になりたがらないのです。賃金闘争をどう闘うかではなく、試験を受けて賃金を上げていくというあり方になってきています。

●I(福岡)
 再任用で公共民間で働いています。去年の組合大会では人事評価制度反対を掲げて闘いました。前は1票でしたが今回は賛成が2票でした。自分ともう一人は障害者枠で入った女性です。彼女とは筆談で話してきました。白票が8票です。その後の組合大会では人事評価制度反対と呼びかけたら6票入りました。職場のことと改憲・戦争と結びつけて闘ってきました。 
 非正規問題が大きく、嘱託、派遣の労働者を入れている。正規職を入れないので、組合に入れないのです。
 ペーパーレス化が進み、国民健康保険では、眼科、内科のレセプト(処方箋)の仕事がなくなっています。「派遣を切れ」と弱いもの同士がいがみ合う関係になっています。自分は後2年ですが頑張ります。

●司会 
 東京は評価制度が早くから導入されました。地方は今、評価制度の攻防になっています。

●まとめ 佐藤賢一(江戸川区職)
 全国労働組合交流センターという組織があり、私は全国労組交流センター自治体部会の代表をしています。東京労組交流センターとしてこういう学習会をさせていただきました。
 敗戦後に、戦後革命が起きるのではないかという闘いがありました。国鉄は戦後労働運動を牽引してきました。賃金もその流れの中で作られてきました。保健所は75年に都から区に移管になりました。しかし、現業労働者がいるから労働組合が名乗れるのです。事務職だけだと団体交渉権はありません。だから現業を解体しようとするのです。去年のマイナス人勧は労働組合解体攻撃です。江戸川区職労でも闘っていきたい。